一人分だけ開いたままになっていた襖を通り抜けて廊下に出る。サカズキ大将は特に変わりなく、気配で私の動きはきっと分かってはいるはず。何のリアクションもないと逆にこちらは気まずくなるなぁ、と思いながら、「……えいっ」と内心で勢いをつけて大将の隣に座った。
隣を盗み見ると、大将は空を見上げていて、遠くの何かを見ているようだった。時折煙管を持つ手が動く。その様子をじぃ――と見つめた。
「……なんじゃ。なんか言いたいことでもあるんか」
「あ……いえ。すみません。ただ……そのう、えぇっと、……すみません」
目玉がギロッと動いて視線がかち合う。慌てて視線を明後日の方向に向けて、しどろもどろに返した。
「…………」
ギシリ、と床が軋む。なんの音だろう? と不思議に思って顔を向けた。それは大将が腰を動かして、足を上げて、座り直した音だった。胡坐をかいてその上に器用に肘を置いて、ふぅ――と煙を吐き出す。ごくりと喉が鳴る。色気……! 色気溢れ出しておりますけど……!
着物で胡坐なんかかいたら重なっているところが乱れるし、脛のところまで裾がずり上がるでしょう。そうしたら、……ほら、見えてはいけないところまで見えてしまうじゃないか。普段はあんなにきっちりスーツを着られているから、太ももなんて見たこともなかったけど、なんか頑張れば見えそうな気も……いや、そうじゃなくって!
あぁ……もう、ほら。首筋だって、鎖骨のところまですべらかに肌が見えて……うぅっ、反則です。普段はあんなにきっちり(以下略)。ネクタイの下を見たためしがなかったんですよ、こちとら大将の手首、足首くらいしか見たことが……っつ、てか、手袋してないじゃないですか!
いつもあれほどにきっちりと手袋をはめられておられたサカズキ大将が手袋をしていない事実に震えた。「……手袋は?」と思わず声に出るくらいには動揺していた。
「あ”? あぁ……あれは和服には合わん」
「…………え? いいの、ですか?」
えぇ、でしょうけど。……でしょうけど! えぇ、もしかして、何か深い理由があってはめていたんじゃなくって、ファッションで? ファッションで、はめていたんですか!
「別に、……お前と、」
と、その場で口ごもってしまわれた。『お前と…?』ん? お前……お前って。ここには私しかいないんですけど、それって私のこと、でしょうか? え、待って。お前と、って。その先はなんですかっ!?!? 気になって仕方がないんですけどぉ!
「な、……なんでしょうか?」
「いや、別に……」
そこまで言っておいて! それは! ないでしょう!
「言って下さい! 気になります……!」
気になり過ぎるあまり、かつてないくらいの大きな声を出してしまったが、それはもう仕方がないと割り切る。若干、「おぉう」と引かれている気もするけれど、それもうあとで考える。今はとにかく、気になる!
「合わせをしているときに、手が触れると悪いと思ってはめていただけじゃけぇ。今はそんな必要はないじゃろ?」
ん? と首を傾げられて、目がちかちかした。は? 待って、待って、待って。いや、落ち着いて自分。落ち着いて。え、サカズキ大将は私のためにあの手袋をはめてくれていたってこと? え、なんで?
「あの、それは……」
「あの馬鹿のせいで憂いをかけた。わしに出来ることは、きっちり、してやることぐらいじゃけ。不本意に触れられるのは、嫌じゃろう……?」
「っ、そんな! いえ、滅相も!」
「…………?」
「あ…………」
あ、まずい。ここは「お気遣いありがとうございます」と答えるべきであったのに。本心が……本心が漏れました。言葉の意味が伝わらなかったのか、大将がキョトンとしておられる。大変、大変に珍しいお姿である……! 胸が、きゅんとした。……うぅ、それに浸りたいのに浸れないのが悔しい……!
なんて言ったら挽回出来る……? 考えを巡らせているうちに無言が続いたせいか、大将の眉間に徐々に皺が寄っていく。うわ~~まずいっ! この場をどうにかうまく収めないと……!
「お前、わしのことが怖くはないのか」
「怖…………え?」
「わしはてっきり、お前に……」
「いえ、私は大将にご迷惑をおかけしない様にと毎日頑張っておりますが?」
「じゃあ、あの普段の動揺は」
「あっ……そっ、それはですね……」
ただただ大将がかっこ良いと悶えているのを堪えているだけで……! い、いえない、そんなこと。
――そうか、と大将が言って、いつもよりも柔らかい口調に思わず顔が向く。
「なら、えぇ……」
向いた先にあった横顔は薄っすらと笑っていて、その様を真正面から見たらどんな心地になるのだろうかと思う。今でこそ、こんなにも欲しいと思うのだ。――きっと。身を乗り出して大将の袖を引いた。こちらに向いた顔は、もういつもの表情に戻っていたけれど、その瞳の中には確かに私が写っているのが月の光の中でもちゃんと見えた。
「どうし……」
大将が言い切るよりも先に口付けた。実際は一秒くらいだったと思うけれど、体感ではとても長く感じた。軽く肩を押されて引き離される。大将の膝上に腕を乗せたまま、私は言った。
「大将がそんなだから……そんなだから、私は……っ、」
胸に蟠っていたあまりに稚拙な想い――最後まで言い切れなかった。
「そんな……? そんなとは、なんじゃ……?」
静かに囁くような嗄れ声が胸に響く。普段の怒声ではない、優しい声色だ。
「お、こらないで……聞いてくださいますか」
「…………努力は、するが、」
「…………私、大将に欲情しています」
息を呑む音がした。大将がひゅっ――と喉を鳴らして、言葉を失っていた。
「おま……「ここまで来たら白状します! ずっと、ずっと、大将のことをそういう目で見てました! すみませんでした!」」
「っ、~~~~」
勢いというものは怖いもので、次から次へと赤裸々な言葉が自分の口から洩れていく。あの時はこう思っていて、あの時はあんなことを考えていた……とそれはもう、必要のないところまで包み隠すことなく言ってやった。
言い切った後の爽快感はなかなかのもので、と……同時に、告白をされた側の大将の呆然としている様もなかなか見ない表情で、今日は本当に珍しいことのオンパレードだと思った。
「ちょ、ちょっと待てぇ。お前、わしがお前よりも一回り年寄りじゃと知って言っておるんかァ……?」
「もちろんです!」
「……わしが娘のような歳のお前に熱を入れられると、思うんかァ……?」
「……年齢は合ってないものです! 現に、ほら……私がここにます!」
「…………」
ぐうの音も出ないとはこのことだろう。私は、父――ガープが50歳を過ぎてから作った子だ。現実に目の前に、それがいるのだ。否定できるわけがない。言われてその現実に目が向いたのか、奥歯を噛み締めるように、グッと唇を結んだ大将が視線を落とす。
「わしは若くはない。情愛のある男ではない……やめておけぇ。今の言葉は聞かなかったことにする」
「っ、逃げないでくださいっ!」
「あ”? わしが逃げておると言うんか、おどれは……」
「えぇ、はい。そうです。情愛がないという癖に、あれ程……部下の私のことを考えてくれていたじゃないですか! 私には十分過ぎるくらいの気遣いでした。本当に……、嬉しかったのです」
なぜか、そこまで言い切ったところで、このまま何を言ったところで大将に振られてしまうのだと思ったら、目頭が熱くなってきて。悲しみで胸が押しつぶされ呼吸が苦しくなってきた。確かに、私はあまりに若い。でも、そんな理由で、諦めたくはないと思った。でも、大将にとっては年齢の壁は大きいものらしかった。ぎゅっと手のひらを握りしめたその時に、ようやく現状の体勢に目が向いて、まるで大将を押し倒すようにして馬乗りになっていたことにようやく気付いた。
「あ……失礼しま……」
すぅ――と顎に指が触れた。
「一夜過ごせば気が済むんか……?」
見上げた視線と見下げた視線がかち合う。……それは違う。私はただ体を重ねたいのではない。心から大将が欲しいと思っているのだ。どうしてそれが伝わらないのか。ぽたりぽたりと溢れ出て落ちていく雫が大将の頬を伝い流れていく。グッと目元を親指で拭い去られても尚、涙は止まらなかった。
「泣き虫は好かん……」
「……すみま、……せん」
――止まらない。声も上げずにただしんしんと降り注ぐ雪のようにして、私の涙は溢れて落ちていった。そのうちに大将が体を起こした。あまりに涙が降ってくるので、それが煩わしくなったのかもしれない。向かい合うようにして座り合ったところで、ちょうど足音がした。
「あぁ、こちらに出られたのですね……」
仲居さんが食後のお茶を持ってきてくれたのだ。二人の間に膝を降ろして「ではこちらに置きますね」と、一切何にも触れることなく、その場から去っていった。僅かながらに動作がおかしなところがあったから、恐らくは何かがあったのだろうと気づいてはいたと思う。でも、それを見て見ぬふりして下さったようだった。
カタン――
お盆の上の横に煙管が並ぶ。代わりに湯呑が一つ、大将の手のうちにおさまった。ずずず――とすする音が一時休戦であることを告げた。私もそれに倣って湯呑を口に運ぶ。喉を流れて胃に落ちた温かな感覚。体に染み渡る……ゆっくりと目を閉じた。

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