陽気なならず者の中心地「スキャンプ」。ここへはよく遊びに来ていた。私の居る遊郭から近いし、なんてったってここは海賊の聖地だ。ここへ来ればかつて、あの船に乗っていたときの頃に戻れる気がした。陽気でバカですっごい楽しくて。今日出会って、肩を並べてお酒を酌み交わして、そうして知り合った人にまた出会うことはほぼないだろう。そう、ここはそういう場所なのだ。新世界のとある海面の上で漂うこの船の上じゃあ、そんな小さな出会いも奇跡なのだった。
行きつけの酒場の扉をゆっくりと開く。キィ――と音がして、あぁまた誰かが乱暴に扉を扱ったんだろうな、とそんなことを思った。
「おや、なまえちゃんじゃないか。久しぶりだねぇ」
「お久しぶりです、マスター!」
ほんとうに久しいね、とにっこりと笑った年輩のマスターは歳のせいでせっせと動き回ることはなく。その下につく若い子達がせっせと動きまわっていた。おかげで私の話し相手はマスターがしてくれるのだ。だからここに来る。マスターに会えるから。マスターが腰掛けている向かいのカウンターにいそいそと足を進めた。「元気!?」ニシシシッ笑うと、あぁまだまだ現役だよとマスターも笑う。
「前来たのはいつごろだったかねぇ?」
「ん? そうだね。最近は全然来ていなかったような気が……んー……半年ぶりぐらい?」
あぁもうそんなになるのかい。けらけらと笑うマスターと出会ったのはもう数十年も昔のことだ。その時に比べたらほんとうに小さくなられた。また少し痩せたんじゃないだろうか。…………そう。私は歳を取らないけれど、周囲の人たちは自然の摂理に従い、どんどん、どんどん老いていく。そんな当たり前のことに鼻の奥がツン、としたその時だった。
「おや、珍しいね。君がここへ来るだなんて」
どうしたんだい? と聞こえた嗄れた声とさりげなく背中に添えられた手に硬直する体。わずかに感じられた殺気に身が震えた。やばい、逃げろ、と本能がいう。視界がスローモーションに流れていく。声のする方向とは反対の方向へ体をズラし、今自分のできる最高の力で床を蹴った。一歩、二歩とズン、ズンと足を進めて扉めがけてかけていく。
「ハハッ、どうして逃げるんだい?」
「っ、」
ドアノブに指先が触れたところでその右手首をがっしりと掴んだ骨ばった手のひら。その手を辿って徐々に視線を上へ動かしていく。ドッドッドッ、とまるでどこかへ駆けていっているかのように心臓が脈打った。結局、視線を上に上げきることはできず。その男の顔が見えるか見えないところで体は止まってしまう。怖かった。
「なまえ、どうした? なぜ答えない?」
優しい手つきで頬に触れるこの人の本心が分からなくて、怖かった。何も言葉を返すことができなくて、顔を俯けてふるふると首を横に振ることしかできなかった。さぁ、と手を引かれるがまま、先ほど腰掛けていたカウンターまで戻されていく。
「どうしたんだい、大丈夫かい? ……なまえちゃん?」
あ、はい。とマスターの声には返事ができるのに。隣に座った男は悲しげな瞳でこちらを見ていた。どうして、あなたはそんな瞳で私をみるのですか?
「マスター、適当な酒を2つ頼む」
「はいよ。若いもんに出させよう。わしは邪魔じゃのう。向こうへ行っておくことにするよ」
「……あぁ、助かるよ」
……え、行ってしまうのですか、と涙を堪えながらマスターを見たのだけども、どうやらその心中はうまく伝わらなかったらしい。マスターはじゃあの、と軽く手を振って行ってしまわれた。その後すぐに出されたお酒の入ったグラスを両手で包んで顔を俯ける。水面を見たらゆらゆらと揺れている自分が見えた。今にも泣き出してしまいそうなその顔に思わず笑ってしまった。なんて情けない奴なんだろうと。
ふ、と笑ったらなんだか馬鹿馬鹿しくなってきてしまって自然と言葉が出た。
「レイリーさんはどうしてここへ?」
「……それを君が聞くかい? 本当なら今頃ベッドの上で君を泣かせているはずだったんだけどねぇ」
「…………怒っています?」
いいや、と彼は首を振ったけれど、彼の手が背中に触れた瞬間、確かにわずかな殺気を感じたのだ。だから、これは嘘だと思う。彼は嘘をよくつくから。黙り込んでグラスに入ったお酒を口に運ぶ。カッと喉を焼けるような感覚。
「っ、けほっ…………これ、ウォッカじゃないですか! それもストレート!」
「……ん、あぁ。そうだが?」
何か問題でも? と首を傾げるレイリーさんをじとりとした目で見る。眼鏡の向こうの瞳はにんまりと細められていた。だから嫌なんだ、この人は。もういい、面倒だと再度お酒を煽った。アルコールが一気に頭に回っていく。あぁ、くらくらする。でも今のこの状況を考えたらそれぐらいになった方が気楽でいいのかもしれない。
「どうしてここへ? と言ったかね」
「え、……えぇ。はい。聞きました」
「別に意味はなかったよ。気まぐれさ。君に断られたからね。他に行くところもなかったし、」
本当にそうなのだろうか、と頭の中では疑念が募っていく。頭を目まぐるしく回転させてその言葉の裏を読もうとしてみるものの、すっかりとろけきってしまっていた頭ではもう何も考えることができず。口を尖らせて「そうですか」と答えることしかできなかった。
「フッ、どうした? どうして怒っている?」
「……別に怒ってなんかいませんよ!」
「ならなんでそうやって唇を尖らせるんだい?」
「っ、!?」
頬に手が伸びてきて、スッと体が近づいてきて、スローモーションに流れていくできごとだったのにまったく動くことすらできなかった。ちゅ、と唇に落ちてきた優しい口づけ。カッ、と顔を真っ赤にして目をまん丸に見開いてその問題の人を見つめたら、ハハッと笑われた。
「ほんとうに可愛らしい子だ」
「れ、レイリーさん!! からかわないで下さいよ! 私これでもあなたと同じぐらい歳を……、」
「そんなことどうだっていいだろう。今目の前にいる女の子はとても可愛らしい生娘なんだ……」
横髪をするり、するりとといていく大きな手の平。耐えられなくて思わず目を閉じた。その手つきがあまりに優しくて。愛おしすぎて苦しい。苦し過ぎて辛い。胸が締め付けられて痛い。ゆっくりと目を開いてにっこりと微笑んでいるレイリーさんを真っ直ぐに見た。どんなにこの人が素敵な人でも。私と貴方では何もかも違っている。これ以上触れ合っていたら抜け出せなくなりそうで、怖くて。……だから私は断り続けたのだ。……もう、半年。もう半年もあなたと触れ合っていなかった。
「なまえ……」と名を呼ぶ愛しい人は私の存在を確かめるようにして何度も何度も名を呼び、頬を首を髪を撫でつけた。私は確かにここにいる。私は確かにここにいて、そしてもう……ここでしか過ごしていくことはできない。
「レイリーさん。もう私のことは放っておいて下さい」
「…………何を言う今更」
「私はここで生きていくと決めたんです。だから、」
「違うな。それは君が決めたことではない。君の前の男が決めたことだ。そして、今の君の男は奴ではない。…………私だ」
なぁ、そうだろう? と目を細めたレイリーさんは懐から一枚の紙を取り出した。
「これが君を新しい世界へ連れ出す」
「…………これは?」

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