カウンターの男へ関心が向いていたとき、彼らに大声で呼ばれる。そんなに叫ばなくても聞こえている。苛立つ気持ちを抑え、足早にテーブルへ向かった。テーブルの横に立ち、ご注文は、と言えば、こちらをからかうような耳障りな笑い声が返ってくる。それでも表情を崩さないように気をつけた。
「しゃくしろ」
「……はい?」
「聞こえねぇのか? 酌だ、酌」
「……すみません。ここはそういうお店ではありませんので……」
「はぁ?」
申し訳ありません。ただただ謝ることしかできない。そんな自分に情けなさを感じつつ、深々と頭を下げたその時――、ヒヤリ。頭から冷たいものが流れてきた。頭を通りバシャバシャと床へ落ちていく。あまりの衝撃に私はその状態から動けずにいた。一部は私の首を伝って服の奥へと入って来た。気持ち悪い。漂ってきた強い匂いに頭がクラッとする。どうやら酒をかけられたようで。込み上げてきた怒りは、拳を握り締めることで抑えるしかなかった。
「まっじー! こんなまずいの飲めねぇよ。だからお前が飲めよ」
「なまえ!」
名前を呼ばれた方に僅かに顔を動かす。濡れた髪の隙間からマスターが駆け寄ってくる姿が見えた。目に熱いものが溜まっていくのを感じる。それは頭から伝わってくる冷たい感覚も相まって、余計に私の目を熱くさせた。マスター、――ごめんなさい。私、もう……心が折れそうです。マスターがこちらに来る前に私の体から力が抜けてしまう。私はその場に座り込んでしまった。
もう、嫌だ。そう思ったときだった。椅子が倒れる音が聞こえた。静かになった空気の中、その音はやけに大きく響いた。なに……? 顔を上げると同時に、ふわりと風が自分の隣を通り抜けるのを感じた。垂れ下がった自分の髪をかきあげる。目の前には、倒れた椅子。さっきまでそこに座っていた男の姿がなかった。目を動かして探す。視界の左側に入ったマスターの顔が私の後ろを凝視していた。私もマスターの視線の先を辿り、ゆっくりと振り返った。
「ッ――――」
声にならない音がでる。男の背中には入っていた時にはあった、あの大きな刀がなかった。抜かれた刀は男の右手に握られており、剣先から根本までベッタリと血が付いていた。一瞬だった。男はシャッと軽々と大きな刀を振って張り付いた血を吹き飛ばすと、背中へ納めた。男がこちらに振り返った瞬間、私の体には鳥肌が立った。その威圧感は私の胸を押し潰し、息もままならない状態にした。
だんだん近づいてくる男に対して、動くことすらできない。顔を上げて、近づいたその男の様子を確認することなどできるわけもなく。ただ通り過ぎるのを待つしかなかった。それまではコツコツと一定のリズムで鳴っていた音が急に私の近くで止まる。恐る恐る視線を動かせば視界には真っ黒なブーツ。私は得体の知れないものへの恐怖から体を震わせた。
切られるかもしれない。一度は目をギュッと強く閉じたが、それから動こうとしない様子を疑問に思い、目を開く。未だに視界の中には黒いブーツが入っていた。変わらずその男はそこに立っている。小さく首を傾げて上を見上げる。それと同時に私の視界は真っ暗になった。頭に何かが当たり、反射的に体が震えた。視界が開けて、男を見上げたときに分かった。
「ぼ、うし……?」
帽子をかけてくれたんだ。都合がいいかもしれないけれど、まるで泣いてもいいと言ってくれている気がした。そう思うと、不思議とその人のことがいい人のように思えてきて、何の根拠もなかったけれども、すっかり安心した私は枷が外れたようにぼろぼろと涙を流した。
――――怖かった。
――――ただ純粋に怖かった。
涙の切れ間に見上げた男と視線が絡む。その男は目を細め、羽織っていた黒いコートを私にかけてくれた。男の少し後ろに立ち、心配そうにこちらを見ていたマスターがその様子をギョッとした目で見ていたのを覚えている。
「……ありがとう、ございます」
結局、男は事の最初から最後まで何も言うことなく。片づけた奴らを背負い、店から出て行った。後に残ったのは、散らかった瓶や料理と男の後ろ姿に何か叫んでいるマスターと黒いコートを羽織った私だけだった。

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