再会から数ヶ月が過ぎた。しかしまだ彼女に触れることができずにいた。タイミングは山ほどあった。……だが、どうしても手が出なかった。彼女を傷つけてしまうような気がして怖かった。
「ミホーク、さん」
彼女が珍しく俺の名を呼んだ。足を止める。久々のことに嬉しさと疑問が押し寄せたが、その後すぐに感じた違和感によってそれもすぐに飛んでいった。戦場で嗅ぐ香り。血の臭いなど場違いだった。眉間に皺を寄せながら素早く振り返る。そこには人差し指からダラダラと真っ赤な血を流す彼女がいた。自分の血がさっと沸く。
「どうした?」
努めて平静を装うが、内心は心臓がドクドクと波打ち、決して平静ではなかった。
「ちょっと、包丁で切ってしまって……。あの、包帯ってありますか……?」
どこまでも控えめな言葉。ごめんなさいと言われてしまえば、なぜお前が謝ると問いつめたくもなるが、それはやめておいた。怖がらせたくはない。自分の顔が怖いことぐらいは理解しているつもりだ。かつての彼女に嫌という程言われたからな。
「それよりもまず止血だ」
流れる血で傷が見えない。傷口に合わせた処置が必要だろうと思い、傷口を見るために何も考えずに指を口に運んだ。口内に広がる鉄の味。一瞬引いた隙に傷口を見る。これなら縫うまではいかないだろう。ホッと胸をなで下ろしながら視線を上げる。
「なまえ?」
頬を赤らめた彼女が目をまん丸に見開いて俺を見ていた。
「なっ、なっ……何してっ!?」
あ、しまったと思う。かつての彼女にはよくやっていたこともこの彼女に通用しないのだったと今更気づく。……しかし、真っ赤な彼女は目に涙を溜めていて、素直に愛おしいと思った。ふと、意地悪をしてみたくなり、もう一度、今度は愛しさを込めて傷口を舐めとる。チクリと走る痛みから顔を歪めつつ、恥ずかしさで頬を染める彼女の表情が一瞬で俺の心を溶かした。
「ッ――」
これは……俺の方の抑制が利かなくなる。慌てて顔を背けて落ち着かせる。欲望のままに動けていたかつてがどれほど幸せだったか、今分かった。
「ミホーク、さん?」
加えて、大丈夫ですか? と服の袖を掴んでくるものだからこの女はやっかいだ。無自覚で平気でこんなことを……
「包帯を持ってくる」
「……あ、はい。お願いします」
やんわりと傷つけてしまわないように手を払い、その場をやり過ごした。この染まった頬を彼女に見られるわけにはいかない。
:
:
同棲はしているが、基本的に俺と彼女との間には常に壁がある。生活を共にするのは食事のときと共有スペース、つまりリビングにいるときだけだった。自室、寝室は別で主に彼女はそこに居た。
いつも通り先に風呂に入った俺は上がったことを知らせに彼女の部屋の前に立っていた。コンコン。
「…………?」
珍しい。いつもならすぐに返事がある。このまま入るわけにもいかない、のだが。……まぁ少々いいだろうとドアに手をかけて回す。カチャリ。まるでいけないことをしているかのように心臓がドクドクと波打つ。なんてことはないはずだ。自分の女なのだ。別にいいはずだ。そう自分に言い聞かせてはみるものの、心臓が落ち着くことはなかった。
部屋に彼女はいた。ソファに座り、膝には古書が置かれていた。本が好きなのには変わりがないようだ。彼女の為にと集めていた本が役立つことには胸が高鳴った。その本を手に取り、すやすやと眠る彼女を見る。何を読んでいるのかと見れば、そこには記憶喪失の少女の物語が綴られていた。どうやらかなり気にしている様子だ。そんな風には見えなかったが……、んん……と声を漏らした彼女が寝言を言う。
「みほ、く……」
それはかつて俺を呼んでいたときの呼び方。普段呼んでいるはずの敬称が抜かれている。……つまり、夢の中では覚えているということか……? ついつい本を握る手に力が入る。
「会いたい、……会いたいよ、ミホーク」
スッと手から本が抜け落ちる。ガタンッと音が部屋に響くとそれに驚いた彼女が飛び起きた。
「――――ッ!? ……え、あっ、あれ?。え、と……ミホークさん?」
パチパチと瞬いた彼女の口から発せられる名前には敬称がついていた。……がっくりと首が折れたことが自分でも分かってしまう。あの……? と顔を覗き込まれて思い出す。
「あぁ、そういえば風呂上がったぞ」
「……はい」
どうも、と警戒心丸出しの彼女に笑ってしまう。あんなに隙だらけだったのに、今更何を……と思ってしまった。そして、早々に部屋を後にしながらもしかしたら案外早く記憶が戻るかもしれないと心を躍らせた。

※コメントは最大500文字、5回まで送信できます