「地獄って物理的に苦しいんでしょうか。それとも、精神的に苦しいんでしょうか」
「また急に物騒なことを言うて、どないしたん。らしくない」
「……らしくない、ですか。はぁ――らしい、ってなんでしょう」
もうすっかり意気消沈したなまえが頭から机に突っ伏すと、それを見た市丸が見かねて言った。
「そんなに気になるなら行って聞いて来たらええやろう」
「……一体なんの話をしているんですか」
「決まってる。『あの人』の話や」
「…………そんなのできるわけないです」
「ハァ――あのなァ、なまえちゃん。二人はどっからどう見たって、「黙ってください。そんなんじゃないですから!」……まぁ、ぼくは別にえぇけど」
「はぁ……」なまえの口から吐き出されるため息はこれで何度目か。それを伝えたところでまた「黙ってください」と言われるだろう。市丸は口を閉ざす。
始めこそ本気で『あの人』とのことを懸念していたなまえだったが、予想よりも遥に早く、この娘は『あの人』藍染惣右介の手に落ちた。……まぁ落ちたっていうか、……落として堕ちた? そこのところの表現は難しいところだが。藍染のねちっこい執着に彼女は気付いているだろうに、見ない様にしている。まるで自分を罰しているようだ。
あの癖しかない男を手懐けている時点で彼女の勝ちだ。どっからどう見たって藍染惣右介はなまえのことが好きだ。誰が見たって分かる。それくらいにあからさまなのに、女連中はそれに気づかない。理由は明白で、藍染が斬魄刀の力を使っているからだろう。抜け目のない男だ。そうすることでなまえを守っているのだろう。……が、それが裏目にも出ている。女たちの反応が変わらないせいで、なまえに実感が湧いていない。二人は恋人であることがうまく周りに周知されていないのだ。
知っているのは男連中だ。その点、藍染はうまくやった。男連中にはなまえには自分がいるということがはっきりと分かるようにしている。少し前に顔を合わせた、たった一度二人のやり取りを見ただけの平子が「絶対に付きおうとるやろ、あれ」と根掘り葉掘り聞いてきたくらいだ。完全に囲っている。
……なのに。
当人はこれだ。
弱音を吐き散らしながら涙を落とさないように意地を張って心の中で泣いている。ほんっとうに、人の話を聞かない頑固な女や。
……にしても、あちらさんもどないしたんや。なまえのこととなるとすっ飛んでくる男が、ここ数ヶ月、なまえを放置している。まるで今までのことなんて最初からなかったようだ。
嫌な感じやな。
:
:
「市丸隊長に泣いてばかりじゃ変わらんで。もういっそ気持ちを伝えてきたらどうや」とお尻を叩かれて向かう五番隊隊舎。そうだ。向こうがどういう気持ちでいるのか分からないからもやもやするんだ。新しい恋人が出来たんなら別れなきゃおかしい。関係をなーなーにしてしまうのはよくない、……うん。はっきり言ってケリをつけよう。
……って、意気込んできたのに!
「え……藍染隊長ですか? 不在ですよ」
なんて間の悪い……。藍染隊長は霊術院に出向いているらしい。
「そうですか。ではまた参ります」
「今日は午後一の講義ですから、二の刻には戻られると思いますよ」
「分かりました」
そうして出直して来た二の刻の過ぎ、通された隊長室には、執務机に座る隊長とそのすぐ隣――「こんにちは、みょうじ副隊長」にっこりと笑う橘さんがいた。
「あ……もしかして取り込み中でしたか」
思わず足が止まる。
「いいや。大丈夫だ。ちょうど話が終わったところだ」
「え~藍染隊長。もう少しいいじゃないですか。まだ詰めれていないところがありますよ~?」
「続きは別の日にしよう。それほど急ぎでもあるまいに」
「……確かに。そうですねぇ。分かりました。ではまた来ますね」
すぐに話を切り上げてくれたおかげで、ホッとした。……あの人は苦手だ。一緒にいると胸が苦しくなる。
「それで話とは?」
「大したことではないのですが……」
「まぁ、掛けなさい」
「いえ、このままで結構です」
「……?」
今までの私ならこれほどまでに完全に断ることはなかった。だから、か、藍染隊長の顔が曇る。ご機嫌を損ねてしまったらしい。これは早めに告げて去った方が良さそう……。ぐっと両手の拳を握って気合を入れる。このまま勢いで言ってしまえ! そう思うのに、声が……出ない。
ごっこをやめられるんだから、私にとっては僥倖なはずなんだ。言え……言うんだ、私。別れましょう、って、たった一言を言うだけだ。
「なまえ、大丈夫かい?」
「え……えぇ」
執務机から立ち上がった藍染隊長がゆっくりと近づいてくる。なんだかふわふわする感覚だ。ぼーっとその姿を目で追っていたら、右手を掬い上げられた。その瞬間、彼の眉間に皺が寄る。
「熱いな……熱があるのでは」
「え……、熱?」
あー……それでふわふわするのか。
「…………すみません。全然気が付きませんでいた。移してしまったらいけないので手を……」
軽く手を引くと追いかけてくることなく放してくれた。
「具合が悪いのなら休みなさい。ギンには私から伝えておく」
「……はい」
隊長は振り返ると机に置いてある瓶の中から何かを取り出して手渡してくれる。
「今はこれしかないが」
「あ……」
私の好きなハチミツの飴だ。紙の包み紙を開けて口に放り込んでくれる。その時にふわっと香った。馬酔木の香り。なぜだか、泣きそうになった。なんで…………なんでこんな気持ちになるの。涙で視界がにじむ。
「……なまえ?」
伸ばされた手を、今度は拒否する。
「だい、じょうぶです。大丈夫ですから」
にへらと笑う。顔が熱い。胸が苦しい。
「あの……藍染隊長」
「……ん?」
「別れましょう」
「…………え?」
私は懐から伝令神機を取り出す。電話口に出た相手が飄々と話し出した。
「なんやなまえちゃん? どないしたん」
「少しトラブルがありまして」
「もしかしてちゃんと話できんかったん? なんならぼくが……「違うんです市丸隊長。……私の方が熱があるようで、今日は帰らせていただいても」……え、そうなん? 無理せんでえぇよ。ぼくが迎えに行こうか」
「……いえ、歩くくらいはできますから。この後、四番隊に寄って部屋に戻ります」
「でもしんどいんとちゃうん……迎えに行くから。そこどこなん?」
「え……っと」
本当に心配そうに言ってくれる市丸隊長のおかげで少し気持ちが楽になった気がする。優しさが身に染みる。――と、すっと伝令神機が手の中からなくなった。っ!?――、慌てて顔を上げると、藍染隊長が取り上げていた。
「ギン、私だ。送っていくから心配しなくていい」
パタン――、市丸隊長の返事を聞く間もなく伝令神機が閉じられてしまった。そのまま流れるような動作で藍染隊長が私の体を抱き上げる。
「あっ……」
拒否することは許さない。彼に一瞥されるだけで、それを理解した。でも怖くない。むしろ……あーやばい。どうしよう。…………まさかこんなことになるなんて。最悪だ。日に日に悪化していく感情。きっちりと縛り付けていたはずの私の恋心。この人にじゃない、かつての惣右介に寄せていた想い。今の藍染隊長は、私の想い人とは違う人だと分かっていても、姿も声も……何もかもがあの人と同じ。……当然だ。同一人物なんだから。違っているのはその腹の内だけだろう。まぁ、腹の内なんて、分かりっこないんだけどさ。でも、何となく分かる。視線とか物言いとか。かつての彼とは違うと感じる。それなのにどうしてこんなに恋しく想ってしまうのか。…………まるで浮気しているような気分だった。違うのに、そうじゃないのに。私が好きなのは、惣右介なんだ。
今まではどうにかこうにか保っていられた。これじゃ、いよいよ……腰の愛刀に触れる。鴻鵠の力はもう殆ど解けてしまっているのかもしれない――
ぎゅううううう。藍染隊長の羽織を握り締める。辛い……苦しい……。早く、楽になりたい。
:
:
隊長室を後にした後、橘は雛森と茶菓子を食べていた。この後の二人がどうなるのか気になったからだ。
「雛森副隊長」
「どうしたの?」
「藍染隊長とみょうじ副隊長って仲がいいですよね」
「え、そう……かな?」
「そうですよ、だって自分のところの隊長でもないのに……」
「あぁ、それは。藍染隊長と市丸隊長がかつての上司と部下だからだと思うよ。あのお二人は仲がいいからね。みょうじ副隊長は二人の間のやり取りを手伝っている感じだし」
「へぇ……そうなんですか」
じゃあ、五番隊に納まるよりも、三番隊の副隊長のポジションに納まった方がいいのではないか。橘は考える。どうやったら推しの藍染隊長の傍にいられるのか、どうやれば気に入られるのか。彼女はずっとそのことだけを考えていた。
綿密に立てた計画は滞りなく進んでいる。……あとは時間が経つのを待つだけ。
現世の方の動きがないとこっちも動けない。最初は私の知っている話といろいろ齟齬があったから焦ったんだよね。いないはずの人がいて、『師範』なんて聞いたことのない役職が出来ているし。浮竹隊長なんか、ミミハギ様を剥がして元気になっちゃってるし。それじゃあこの先の話は一体どうなるんだろう。浮竹隊長が死なないと、尸魂界はユーハバッハの襲撃に耐えられないはず。
そうなったら藍染隊長も、私も、生きてはいられない。……それは困る。せっかく大好きな漫画の世界に転生することが出来たんだ。絶対に『大好きな』藍染隊長と両想いになって、幸せに暮らすんだ。あの人の本当の裏の顔を知っているのは私だけ。あのみょうじっていう女は隊長の上辺だけしか見ていない。……どうせ本当の顔を見たら逃げ出すだろう。それに比べて私は……!
――バタン、急に大きな音がした。
「隊長室の方からだ」
雛森の後ろに橘も続くと、隊長室から出て来た藍染隊長がなまえを抱えていた。その瞬間、橘の霊圧が揺れる。何、あの女……藍染隊長にお姫様抱っこしてもらうなんて。なんて厚かましいの……? 彼女の周りをどす黒い霧がふわふわと浮いている。……死んでしまえばいいのに。橘が呟くと霧がうねりながら飛んでいく。なまえを目掛けて。だがしかし、そのことに藍染も雛森も、誰も気が付かない。黒い霧は藍染の手を避けてなまえの足先を覆った。
「う……うぅ……」
呻くなまえ。いい気味だ、そうは思うが未だ抱き上げられている事実が妬ましくてしょうがなかった橘の手の平には深く食い込んだ爪によって血が滲んでいた。

※コメントは最大500文字、5回まで送信できます