目の前が真っ白になるという経験をしたことがなかった。そのようなことは私の人生であり得ないと思っていたのだが――真紅の柄 を目にした瞬間、目の前が真っ白になった。
死神が愛用する刀はそれぞれ少しずつ異なっている。慣れた者が見れば一目で誰の刀か分かった。なかでも真っ赤な柄を使う者は珍しく、黒い本体を包み隠すように蛇腹巻にされた柄巻は更に珍しい。中でもなまえの糸は真紅と黄金。何ともまぁ、なまえらしくない毒々しい色合いである。……いや、らしくないというのは、私の押し付けか。なまえはその色合いを甚く気に入っていた。
そして決定的であったのは、柄頭にぶら下がる刀緒だ。白鳥の細工が施された柄頭の穴を通る飾り紐。馬酔木をモチーフに真珠が組み込まれたなまえのお手製。私が、私の物を証明するために手放した、あの飾り紐と色違い……。白と黒が藍染隊長の色だと思ったので――そう言って、なまえは編み込む白と黒の色を互い違いにした揃いの飾り紐を作ってくれた。
間違いない――鴻鵠だ。血が沸騰する。視界が消えた。意識が飛んだ次の瞬間、私はウルキオラの首をみしみしと捻り上げていた。そうするのが当然のように鏡花水月を抜刀する。刃先を眉間に刺し込むまでのわずか数秒、「移動が終わりました」現れた要によって意識が逸れた。その僅かな刻にギンが手首を掴み、刃先はウルキオラの額、手前で止まる。薄皮一枚さえ切ることができなかった。未だ掴んだままの首をみしみしと絞めつけながら腹立たしさに奥歯を鳴らした。
意図せずして『人を無暗に傷つけてはならない』 鴻鵠の縛りを守る結果になった。…………そんなことは望んでいない。こんなもので腹の虫が納まるわけがないだろう……! ウルキオラの額から鮮血ではなく、大量の汗が伝い落ちていく様子を忌々しく睨みつけた。あぁ――この場のすべてを壊し尽くしてしまいたい。。
ギンの手を振り払う。視線を落としたところ、ウルキオラの見開かれた瞳孔が、血管が脈打つように拡大と縮小を繰り返している。明確な恐怖がそこにはあった。昔の私ならそれがどんなに甘美に思えただろうか。だが、今はそんなものどうだっていい。
状況を掴めていないはずの要はいつだって率先して動く。恐怖など意に返すことなく従順な姿、「殺しましょうか」という問いかけで頭が冷えた。らしくなく冷静さを欠いていたらしい。どうでもいいことで時間を喰ってしまった。あとで要に礼をするべきか……。今はこんなことをしている場合ではないというのに。
「……いや、まだ用がある」
首を持つ手を緩めると、ウルキオラが激しく咳き込んだ。首にはくっきりと指の跡が――赤を通り越し、青黒く残っている。破面を生み出したのは紛れもなく私であるのにも関わらず、見っともなく息をする浅ましい生き物が疎ましくてたまらなかった。……いや、待てよ。首を絞めても縛りには影響ないのか……? 未だに鴻鵠による縛りの程度は不明瞭である。一度、衝動を抑えきれずに破面の足を踏み砕いたことがあった。その後、瞬間的に足に痛みが走り、同じ足にヒビが入ったのである。程度はさほど大きくはなかったが、もし、命を奪っていれば……私の命も危なかったかもしれない。それ以降は衝動を抑えるように気をつけていた。……まぁ、今回はかなり危なかったが。
傷つけてはいけない、では……どの程度までは許されるのか。今まで考えるのも面倒で試したことはなかったが……。折角だ。もういっそ首を折って確かめてもいいか。なまえと共に生きられぬ星に生まれたのであれば、このまま生きていたって何の意味もない――再び腕を伸ばしかけたところ、ウルキオラが言った。
「すぐに案内いたします」
折角の機会だ――、もう一度確かめた後でも遅くはないだろう。
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ウルキオラから手渡された斬魄刀は確かに鴻鵠であったが、なまえ本人がここに来ているという確証はない。尸魂界が仕掛けた罠かもしれない。試しにウルキオラになまえの写真を見せたが、よく顔は見れていないと使い物にならなかった。やはり、使えぬ生き物だ。
緋沙羅が作る異空間については承知していた。こそこそと何かをやっていることも知っていた。だが、まさか存在自体を消せるほど力があるとは知らなかった。もしも、本当になまえがここへ来ていたとしたら、完全に私の判断ミスだ。
なまえには、虚夜宮 へ直通する門と鍵を渡していた。ほんの少しの希望を、気まぐれに任せて渡した。一握りの未練があれば、彼女がここへ来てくれるかもしれない。その機会を一片たりとも逃したくない。だから、私は彼女に手段を手渡した。本当になまえが来たのだとしたら、それは私に会うためだったのだろうか。淡い期待が浮かんですぐに消える。少し考えれば分かる。それは違うだろう。状況が状況だ。恐らくなまえは……、『妹』が攫われたからここへ来たのだ。 疎ましき女が余計なことをしたせいで、選択を任せたはずの行為が全くの無意味になってしまった。
鍵を利用すれば、木門の前への道がいつでも開く。使用したという連絡は入って来ない。……が、虚夜宮 に死神が入ってくれば気配で分かる。私よりも他の者が気付いたとしても、破面の連中は必ずこちらに指示を仰ぐ。緋沙羅には、木門に近寄らないようにと伝えていた。だからそれ程、心配していなかった。
それがまさか、緋沙羅の手によって存在を消されていたとは。あれ程までに私を縛り付けておきながらまだ足りぬというのか、あの女は。今すぐにでも薙ぎ払い消し炭にしてしまいたいが、それはもう少し先だ。……それにしても、なまえは私の精神を少しずつ削り虐める方法がお気に入りらしい。もう随分彼女にはやられてきた。……まぁこれに関しては不思議と悪い気はしていないが。好きな女にいたぶられる趣味があったとは自分でも驚きである。
どうか彼女ではありませんように――頭ではそう願っていても、ここ へ何の障害もなく侵入出来ている時点で彼女以外はあり得ないと、理解している。
目の前を移動するウルキオラの体を脳内で何度惨殺したことか。想像だけでは物足りず、殺気が漏れ出る。殺意の籠った霊圧が重圧となり、ウルキオラの移動速度が落ちたせいで余計にイライラさせられる。この程度の霊圧で、一体どれだけ貧弱なのだ。
東一角はまだ開拓の進んでいないところだ。建物の側だけを用意したところで止まっており、内装は揃っていない。それでも、ある程度の手入れをしていたのだが……。辺り一帯が瓦礫で埋まっている。破壊された柱の影に案内されてようやくその場に黒い霧があることに気付いた。
「これか……」
話には聞いていた緋沙羅の能力。この霧によってなまえの体は蝕まれた。……が、それはあくまで推測の域を出ていない。なまえは周囲の者に悟られぬようにしており、彼女の口から直接聞いたわけではない。なまえの異変には気付いていたが、状態の悪化については、ギンからの報告で知った。なまえが抱え込む痛みを知りながら、それでも、私は……触れられぬ距離に立たなければ――私はその道を自ら選んだ。
「見えるな……」
「恐らく、藍染様が命じた後、入り口を開けたままなのかと。普段はこの霧も見えません」
「…………」
ウルキオラが先に入っていく。すぐ後ろに要が続き、私も、ギンも足を踏み入れた。空間は『断崖』とよく似た仕組みのようだ。通り抜ける感覚が似ている。僅かな通路を進んで抜けた先、小さな箱型の空間に出た。灰色の空間にひとつの気配。
こちらを振り返ったウルキオラが「彼女です」と天井から吊り下げられている女を示した。意識がないのか、項垂れた頭。顔は見えない。予想もしていなかった光景に足が止まった。
「命の危機にあると、何故言わなかった」
「……先ほどまでは確かに生きておりました」
私の落ち度だ――破面は我々と思考が違う。とくにウルキオラは再生能力を持った破面だ。霊力の消失……生命の危機について認識がかけ離れている。私はなぜ今まで気付かなかった? 思い返せば、喉が潰れていると聞いた時点で想像すべきであったのだ。尸魂界を出たせいか、私もかつての常識を忘れてしまっている。たったそれだけのことでまさか――あぁ……そうだ。彼女は出会った頃からずっとそうだったではないか。
空間に入った途端、むせ返るような鉄の匂いがあった――血の匂いだ。傷を負う死神であれば怪我の程度について知識を持ち合わせ……いや、考えるのは後だ。ウルキオラの処分は後回しにし、今は目の前のことをどうにかしなければらない。目まぐるしく回る思考をすべて投げ出す。息を飲んだギンが駆け出すよりも先に私の体は動いていた。
横一線、指を掃うと真空の刃が放たれる。天井の鎖が真っ二つに分断された。空気に抵抗されてガチャガチャと鉄の音が響く。一人の体が落ちてくるのを見上げ、私はその体を掬い上げるように優しく拾った。腕に乗った頭を覗き込む。はらりと落ちた横髪。皮膚に張り付いた血液がひび割れて落ちていく。現れた顔は確かになまえだった。彼女は身じろぎもしなかった。顔の汚れを私の着衣で拭う。白い衣に赤黒い血がべっとりとついた。幾度も拭き取った後に現れた、血の気のない顔――喉がぎゅっと詰まった。
「――――っ、」
心臓が強く打ち付ける。最悪の結末を目の前にして、呼吸が浅く今にも止まりそうだった。手を掬い上げても、何度掬っても落ちてしまう。肩を揺すっても、名前を呼んで頬を優しく撫でても何の反応もない。――冷たい。なまえの体はまるで冷水に浸かっているように冷え切っていた。
「……なまえっ!」
ただ眠っているだけなんじゃないか。瞼を優しく親指で詰っても。唇に触れても、返ってくるのは冷たい皮膚の感覚だけ。
「…………こんな、」
そこでようやく気付く。なまえの全身が、顔以外も真っ赤に染まっていた。乾ききった血やうっ血した手首から、長く吊るされていたことが分かる。なまえを抱き締めたまま、両拳を握り締める。なまえは一糸纏わぬ姿で血まみれになっていた――どうしてなまえがこんな目に合わなければならない。
こんな風にしたかったわけじゃなかった。私は君に幸せになってもらいたかった。私がいることで君が傷つくのであれば、離れることで君を守ると決めたのだ。……にも拘わらず、君を巻き込んでしまった。たとえ君が別の誰かを見ていたとしても、我慢ができてしまう程に私は君を愛していたはずなのに――、お願いだ。目を…………開けてくれ。
――視界が滲んでいく。ザッ、ザッ――足音が近づいて、顔を上げる。ギンと要が傍に来ていた。
「なまえちゃん……まさか死んでませんよね? まだここに存在しているってことは、霊力はまだあるんですから!」
「…………」
「しっかりして下さい。あんたはこの子のことになるとほんとダメダメなんやから……すぐに脈取りますよ」
ギンがしゃがみ込んで脈を取るために首に触れる。――が、取れなかったのか、すぐに右手首に指を置く。口では飄々と言った癖に、脈を取るギンの手は震えていた。眼差しは真剣そのもので、私と同じ『 どうか生きていてくれ』という願いを孕んでいた。
――と、「今、唇が動きませんでしたか」離れて立つ要が言った。要は目が見えない代わりに聴覚が誰より優れている。何か聞こえたような――サッと視線が唇に向かう。冷え切った体は死体のように冷たい。死神は霊力が枯渇すると存在が消滅する。仮死状態の時間は人間よりもやや長く、霊力が尽きて霊子に変わるまでの間は持ち堪えられることが多い。……だから、まだ……まだ、間に合うかもしれない。震える指先で唇に触れて脈を取る。――やはり冷たい。………… だが、
「微弱な脈は読み取るのに時間がかかります」
ギンの言う通りにしばらく粘る。息を殺して脈を取り続けた。
――とくん。
今、一瞬、脈が……、
とくん――、とくん――、ほんの僅か、小さく脈打つ感覚が、確かに指先で感じられた。
「………… 脈が、ある」
バッ――と顔を上げたギンが鴻鵠を鞘から抜いた。一般的な死神であれば手を付けられない状態でも、なまえは違う。彼女ならば……! ギンから鴻鵠を受け取る。握り手をなまえの手の中に押し付けるが、なまえに刀を握る力は残っていなかった。それでも握り手をなまえの手の平に押し付け、今度は指を折って強制的に握らせた。
「……目を覚ましなさい、なまえ」
冷やかな言葉のなかには慈しみの感情が入り混じっていた。ウルキオラは首を傾げる。今まで聞いたことのない不思議な声色だった。
「鴻鵠、貴様のなまえが死にそうだぞ。いいのか。私を縛り上げてでも守りたかったものだろう? 守るならば、最後まで守りきれ。この役立たずが、でなければ……」
それは藍染が腹いせに言い放った言葉だったが、鴻鵠を呼び覚ますには十分だったらしい。刀全体が息をするように、真っ白に色を変えていく。これが鴻鵠の特徴だった。刀の力を使うとき、鴻鵠は真っ白に変化する。その瞬間、藍染と市丸はホッとした。淡い光がなまえの手の平から広がっていくと、みるみるうちに血色が回復していった。そして僅か数秒でなまえは刀の柄を自分の手で握り締めていた。枯れていた唇がゆっくりと動く。
「り……っせ…… よ、…………こぅ……こ、く……」
解号が、藍染の耳に届くと同時に、きらきらと輝く光の粉がなまえの全身を包み込む。時間にして、数十秒――光が消え去るとそこにはすっかり元の通りに戻ったなまえが立っていた。衣服も何もかもが戻っていた。
「なまえちゃん、良かった……」
ウルキオラの隣に立つ市丸が言った。ウルキオラがつい市丸を見ると、視線が絡む。顎でくいっと前を向くように諭されて正面に顔を向ける。『あの』藍染がなまえを抱き締めていた。
「え? あ、……あれ……あいぜん、たぃ……ちょ?」
困惑の最中でも、なまえは相変わらずだった。先ほどまで死の間際に立っていたというのに、間の抜けた声で呆然と突っ立っている。動きが鈍い人間だ。ウルキオラはなまえを見つめながら、『これ』は藍染様の苦手なタイプなのではないのか、とぼんやり考えていた。
「………… はぁ、まったく」
だが、ウルキオラの予想とは反して、藍染はとても嬉しそうに笑っている。ウルキオラは不思議そうに二人のことを見ていた。
「……えーと、えーと……」
どうやらはなまえ状況が分かっていないらしい。
「そのぅ……お元気そうで、何より、です……?」
ばつが悪そうにそう言うと、「くっ」と喉を詰まらせた藍染が笑いを堪えて顔を背ける。ウルキオラの隣にいる市丸は堪えることもなく、くつくつと笑っていた。
「っ、あ、はっ、はっ、は~! 最高やなまえちゃん。こんな状況でよう言うた!」
「まったく……君には敵わないな、ほんとうに」
「え……? あ、れ? 何の話ですか?」
「いや、気にしなくていい。……まずは体調だ」
「…………?」
「傷は全部治っているかい?」
「…………」
藍染に言われたことが理解しきれないのか、なまえが大きく見開いた目をぱちぱちと瞬いている。
「すみません。お話の意味が……」
そこで藍染と市丸はハッとする。なまえは先ほどまで死の淵を彷徨っていた。そして全身の傷を癒すために大量の霊圧を消費したはずだ。もしかしたら一部の記憶が飛んでいるのではないか。 再生前のなまえを見るに、恐らく相当な経験をしただろう。そこに至るまでの記憶が乱れていてもおかしくない。
では、今ここにいる彼女の状態がどうなっているのか。二人は互いの目を見て頷く。ひとまず様子を見るべきだろう。
「そちらは……」
市丸の隣に並ぶ東仙が軽く会釈をすると、なまえがぎこちなく会釈を返す。尸魂界の一件で、なまえにとって東仙は苦手な人物になったらしい。そしてその隣、ウルキオラに対して藍染が刺すような視線を向ける。殺気がウルキオラを押しつぶそうとするなか、なまえが「はじめまして……。ん、あれ? でもなんか見たことが……」と言った直後だった。
「っ、うぅ~~~~」
酷い頭痛がなまえを襲った。ふらつく体を藍染が支えるとなまえがその場で蹲る。そのまま地べたに座ろうとするので藍染が抱え上げた。なまえは抗うことなく藍染の腕に納まる。意識が朦朧としているらしく、開いた目の焦点があっていない。
「すみま……うぅ、………… 頭が割れるようにいた、ぃ……」
「眠りなさい」
「…………」
藍染の声を聞いたなまえはストン、と眠りに落ちた。

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