07:そっとくちづけ

「ボガード」

声がした。

ふわふわとした心地だ。

俺は、死んだのか。ここは、天国なのか。

ついさっきまでの地獄絵図とは違う景色。

ここは……ここは、なまえの故郷だ。

一時期、なまえが住んでいた島の海岸。少し前になまえを迎えに行ったときに一緒に歩いたところだ。

「どうしたの、ボガード」

恐る恐る振り返ると、そこにはなまえが立っていた。

……なまえ?

「ん?」と不思議そうに首を傾げている。俺はその手を掴んだ。近付いたなまえに向かって言う。

――俺は、

「…………? どうしたの? ねぇ、何か言ってよ」

なぜだ……、どうして声が……。

「ボガード……」

なまえの顔がゆっくりと歪んでいく。その両目からぼろぼろと大粒の涙が落ちていく。

「約束したじゃない! 絶対に帰ってくるって! なのに、どうして。目を覚まさないの! ねぇ!! ねぇ、ボガード!!!! ねぇ!!」

俺を責める声が、聞こえる。

目の前のなまえからじゃない。どこか、遠く。遙か遠くから。

 

知っている香りが――桜の香りが一瞬だが強く香った。ゆっくりと瞼が開いていくが何も見えない。何かが、頬に落ちてきた。冷たくも、温かくもあるそれはぼたり、ぼたりと俺の顔に降ってくる。

「…………ボガード?」

声がした。

視界に映るのは、故郷の砂浜で大粒の涙を落としているはずのなまえだった。……これは、また……夢か? 手を伸ばす。涙の筋を優しく撫でた。指先に触れた柔らかな肌。その感覚は夢とは思えないほどに現実リアルで、一瞬、思考が止まった。

「……なまえ、か?」
「よか……っ、目を…………あ”ぁ”…………」

 

――これは、現実……なのか?

 

「なまえ? あ……ぁ……本当に? なまえ……?」
「ボガードっ!!」

縋り付いてくるなまえの背中に手を回す。確かにそこに存在している愛しい人の身体。なまえに触れることができた。その瞬間、全身から力が抜けた。目頭が熱くなる。心音が囃はやし立てるように鳴った。

「っ、なまえ! …………会いたかった!!」

なまえを強く抱きしめる。

「私も! 私もずっと会いたかったよ、ボガード!」

何度も何度も。互いの存在を確かめるように、俺たちは縋り合う。なまえの首に顔を埋めたとき、桜の香りがした。なまえの好きな花の香りだ。…………俺の好きな花の香りだ。

「もう目覚めないかも……って、だから私…………っ、あぁ…………もう、」
「すまない。遅くなってしまった」
「ほんっとうに、遅い! ……遅すぎるよ」

目を真っ赤に腫らしたなまえが鼻をすすり上げながら笑ってくれた。つられて俺も笑う。愛おしくて、たまらなくて、顔を寄せる。どちらともなく鼻をすり合わせ、唇を重ねた。

何ヶ月ぶりか分からない、なまえとの時間。それが嬉しくて、尊い。

「もう……会えないかと思ってた」

ぽつりと、なまえが言った。泣き腫らした顔で弱々しく笑うなまえの姿は痛々しい。今一度、心からの謝罪を告げながらなまえを抱き締めた。背中に回るなまえの手が震えている。

「もう大丈夫だ。俺はここにいる」
「……うん」

そこで、ようやく周囲に目が向いた。自分はベッドにいた。

ここは海軍の病院内。おそらくは隔離棟。部屋は個室で閉鎖的だった。一つしかない扉以外にあるのは……なまえが座っていた丸椅子と医療機器のみだった。

抱き締めたなまえの身体は記憶の中の彼女よりもずっと細かった。……今は一体何日だ。あの日からどのくらいの日数が経っているのか。俺が眠っていた間、なまえは……まさかずっとここにいたのだろうか。

「顔をよく見せてくれないか」
「…………ん」

やはり、なまえの顔色はよくない。

「無理をしていたんじゃないだろうな」
「……貴方に言われたくないわ。そんなにボロボロな身体をしているんだから」
「……?」

まさか怪我を……? 正直、意識が飛んでしまっていたので自分がおかれている状態がいまいちよく分かっていなかった。

「内臓破裂、右足剥離骨折、胸部の圧迫骨折、だって」
「……その割に痛くはないんだが?」
「この体力ばか! 貴方が寝ている間にほとんど治ったのよ!」
「お、おぉ……さすが、海軍の医療はすごいな」
「……まぁ、ね。でも、…………本当に酷い状況だったんだから」

その時のことを思い出したのか、なまえの表情が暗い。

「もしかして、毎日、来てくれていたのか?」
「……当然でしょう?」
「…………ありがとう」

ふふふっ――どういたしまして。

なまえが笑う。それだけで、救われた。

「あ、そうだ。目を覚ましたこと、ガープさんに言わないと」

懐から電伝虫を取り出そうとするその手を掴む。

「……?」
「もう少しだけ、このままで居てくれないか」

今は、君との時間を楽しみたい。

「……もう。ちょっとだけだよ?」
「あぁ、分かっている」

再びなまえを抱き寄せる。そして、俺たちはまた顔を寄せ合った。

:
:

ボガードが目覚める少し前。
なまえは小春からある情報を聞いていた。

「目を覚ました海兵ですが、その方には奥様がいらっしゃいました。なまえさんと同じように、毎日来ていたそうです。ある日、ふと思い立って唇に口付けをしたそうです。それまでは、医者に触ってもよいと言われていた手の平にしかしなかったけれど、その日は、唇にしたんだそうです。そうしたら――彼が目を覚ました、と。…………なまえさん、やってみる価値があると思いませんか?」
「それって……どこかで聞いたことがあるような」
「……私も思いました。ある童話のお話そっくりですよね」

やってダメ元だ。なまえは半信半疑、ボガードにキスをした。そうしたら、みるみるうちに顔色が良くなっていって、三十秒足らずで彼は目を覚ましてしまった。

つまり、今回の病というのは、眠り姫が患っていたという、『王子様のキス』で目を覚ますというものだったらしい。今回は立場が逆だったけど――そんなのって――

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