最近、出勤時エレベーターでいつも同じ時間に乗り合わせる女社員がいる。その社員はおそらく俺のことを知らない。一年に一回必ずある講演で俺は全社員の前に立つ。少なくともその時に顔を見るはずだ。だから社員達は俺のことを知っていて当然のはずなのだが、なぜだかこの女社員は俺を見ても反応がない。これでも一応この会社の社長なんだが。それとも俺の方が自意識過剰なんだろうか。そうやってときどき不安に刈られることもあるが、「おはようございます」と腰を低くしてわざわざ挨拶に来る別の社員を見ていればそれは杞憂だと再確認する。
しかし、あの女社員はいつも何を見ているのか。
いつもぼうっと、心ここにあらずという感じでエレベーターに乗り合わせてくる。そして二つ下のフロアで降りていく。一度、その女社員が名前で呼ばれているところに遭遇した。そこで初めて名前を知った。社長なのだから調べようと思えばすぐに分かったことではあったが、そこまでしようという気にはならなかった。
「なまえ、というのか」
いつも何を考えているのか、いつか聞いてみたいと思った。
それから季節が二つ流れた。今日も変わらず彼女は同じエレベーターに乗っている。しかし、以前とは少し変わったことがある。
「おはようございます」
「あぁ、おはよう」
そのなまえという女社員が挨拶をしてくるようになった。……というのも、いつだったか、なまえの着ていたコートがエレベーターの扉に挟まってしまったことがあって。その時に助けたのをきっかけにして、朝会うと挨拶をしてくれるようになった。きっかけはどうあれ今まではなまえにとって空気同然だった俺が認識されたということになる。そこまで考えが回って、意外にも自分がそんなことを気にしていたという事実に気付いた。だから、苛ついていたというのか。
しかし、相変わらずなまえの心はここにあらずという風だった。
朝エレベーターで乗り合わせて挨拶を交わす、その程度の俺が「何をぼんやりと考えているんだ?」なんて踏みいった質問をするのはおかしいのではないか。エレベーターの中ではいつもそんなことを考えていた。そんなことを考えているうちになまえが降りるフロアに着いて、なまえが軽く会釈をして降りていく。そして、ぼんやりとしているうちにすぐに自分の降りるフロアに着く。足を踏み出して一歩。その瞬間に、エレベーター前で待機していた部下と仕事の話に入る。だから、季節が二つ流れても何も聞けずにいた。
それはただ単に言い訳だと言われればそれまでだが、別に絶対に話さないといけないということではあるまい。だからこそ、”おはよう”の次の言葉が続かないのだ。その次の言葉には強い意志が必要なのだ。
そして、その強い意志がなくてもついで口から出ると言えば、先にあったように偶然の事柄だ。そう、ついつい口から出る言葉というものに強い意志は必要ない。そしてそれは大抵が本音であったりする。
なまえがまたやった。
「何をそうぼんやりとしているんだ。危ないだろう」
「っ、す、すみません!」
なまえの挟まったコートを取り除いて、そんなことを言えばなまえがぺこぺこと頭を下げた。
「いつもぼんやりとしているが、大丈夫なのか?」
「え? …………あ、いえ、」
歯切り悪くそう返したなまえは、もじもじと手を組んだり解いたりしている。何かを言おうとしているのは分かったが、何を言いたいのかそれは分からない。シン、と静まったエレベーターの中、ピンポン――とフロアに到着した音が鳴ると、まるで逃げ出すかのようにしてなまえがエレベーターの中から飛び出していった。
あーあ、これは完全に嫌われたな。とそう思って、閉まっていく扉に視線を向けると、扉の隙間の向こうに立っていたなまえが深々と頭を下げているのが見えた。あれはただ単に恥ずかしかっただけなのかもしれないと自分に都合の良い解釈を取り付けて、ふぅと息を吐き出した。
次の日、なまえはエレベーターに乗ってきた。昨日のこともあり、つい凝視してしまう。今日は挟むなよ、と。その視線を感じたのか、こちらを見たなまえが恥ずかしそうに顔を背けながら「おはようございます」と言った。
「おはよう」
一拍開けてなまえが言う。
「昨日はありがとうございました」
「今日は大丈夫だったな」
くすりと笑いながら隣に立つなまえのつむじを見ながらそう言うと、スゥと息を飲み込んだなまえがこちらを見上げた。視線が合うと、はにかんで視線を落としながら言う。
「二回もやるとか、ほんと恥ずかしいです。もうないように気をつけます」
なまえが笑っている。……ような気がする。ここからではなまえの顔の見ることはできないが。
「もう少し気をしっかり持つことだな」
「……はい。ですね」
「心配ごとがあるのか?」
「心配ごとというか。まぁ……その、恋わずらいってやつですよ」
「…………恋?」
「あっ、こんなこと話すのなんか変ですよね。でももう言っちゃいます。ずっと片想いしている人が居て、その人が最近同じ部に異動してきたものですから、」
あぁ、なるほどそれで。
「あ、私ここなので。では」
なまえはそう言うといつも通り小さく会釈をしてエレベーターから降りていく。その様子を扉が閉まるその瞬間まで見ていた。なまえの姿がなくなってからも二つフロアを上がって、またエレベーターが開くまでずっと見ていた。胸が苦しかった。焼けるように、痛かった。俺は……何を期待していたんだ。
恋に恋していないか?
自分に問いかけた。

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