第7話 妥協することを覚えろ

席に着いて、水の入ったグラスを抱えたまま、テーブルに置かれた蝋燭の炎を見ていた。水を飲んだらだいぶ落ち着いた気がする。今日は嵐のように色々なことが起こる日だ。グラスをテーブルに置いて視線を上げると、目が合う。彼は台風の目のように静かに私を見ていた。

「落ち着いたか」
「……はい。だいぶ」

恨めしい目で見つめ返してみた。けれど、それが彼に伝わったかどうかは分からない。

「言ったら来ないと分かっていたから言わなかっただけだ。そう怒るな」
「怒ってなんて……!」

「ん?」と片眉を上げた社長が見透かすような目で見てくる。……どうやらしっかりと伝わっていたらしい。

「嫌いなものはあるか?」

テーブルの上に置かれているメニューに視線を落とす彼につられて自分のメニューに視線を落とし、二つ折りにされたメニューを手に取って開いた。……フランス語で書かれているんですが。

「上から……」と、おそらくここに書かれている料理名だと思われる名前を読み上げていく彼。吃驚して目をまん丸に見開いていたせいか、「なんて顔してるんだ」と吹き出していた。

「読めるんですか!」
「そりゃまぁ、よく来ているからな」
「す、すごいですね!」
「…………そうか?」

どうやら”すごいですね”と誉められることにあんまりピンときていないらしい。「別に普通だろ」と言いたげに再びメニューに視線を落として途中になっていた読み上げを再開していた。

「大丈夫です」
「そうか。では頼もう」

近くにいたウェイターにアイコンタクトを送ったらしい。素早くテーブルに来たウェイターに注文を済ませる姿は鮮やかだった。そして、テーブルからウェイターが消えると訪れる沈黙。店内に流れる音楽のおかげでまだましのだとは思うけれど、……なんていうか、気まずい。

「ようやくゆっくり話せるな」
「……はい?」

「いつもあの箱の中で数秒だからな」
「あ……確かに」

言われてみればそうだった。社長と話すのはいつもエレベーターの中で。あの中以外で話すのは今日が初めてなんじゃないかな。こんなに納得できたのは久々だったせいか、うんうんと強く頷いた。それを見た社長が笑う。

優しい笑顔だった。なんだかすごく……むずむずする。

「……それで? デートはどうだった?」

ハッ――とした。ふわふわとしていた夢見心地から現実に引き戻されて、社長はただ話相手が欲しくて私を連れてきているんだからと、浮き足だっていた足を地につけるようにして自分を宥めた。俯いていたら「うまくいかなかったのか?」と彼が続けた。

「……うまく、というか。そもそもデートじゃなかったので」
「そうか。俺はてっきりそうだと思っていたんだが」

私だってそうだ。そう思っていた。でも、待ち合わせの場所に行ったら、待っていたのは彼と彼の友人で。ふたりっきりじゃなかったのだ。当然なんで? なんて聞けるわけもなく。そこまではっきりと”二人っきりで会う”なんて話していたわけじゃなかったし。向こうがたかがランチだって思っていただけかもしれない。

それでも嬉しかった。すごく好きな人で、まともに話もしたことがなかったから、色々な話ができたし。彼の友人だってとてもいい人で、会話を盛り上げてくれて。

「…………次は二人で食事に行こうって誘ってもらいました」

でも、なんか引っかかるものがあった。疑い深い方じゃないはずなんだけど。

「よかったじゃねぇか」

顔を俯けたまま聞いた声は、太く重いものなのに、女の人のような柔らかさがあってとても優しい声だった。これって励ましてくれているのかな。顔を上げて彼を見て「はい!」とにっこりと笑って返した。

ちょうどそのとき、前菜の料理が運ばれてきて二人して料理に手をつけた。美味しかった。うまい言い回しができないからそれ以外言えないんだけど、とても美味しい料理だった。

それからはお互いの仕事の話とか、社長がフランスに行ったときの話を聞いた。意外にも社長が疑問に思っているのことには私からしたら当たり前のことも入っていて、驚いた。「それはですね……」って得意げに話すと「あぁそうか」と言って頷いてくれる姿になんだか凄く安心したのをよく覚えている。

「仕事がうまくいかない?」
「はい。なんかいつもつまずいちゃって、計画通りにいかないことが多くて……」

「そんなものだろう」
「え、そうなんですか?」

メインに出てきたレア肉にナイフを入れながら社長が言う。

「そうそうスムーズに行くことはない。俺だってよくつまずいている」
「…………そう、なんですね」

「なんだ、意外だって言いたいのか?」
「えぇ、まぁ」

「少し……」と視線を上げると、社長の唇の端にソースが付いているのが見えた。”ううん”小さく咳払いをする。訝しげに眉を寄せた社長にはうまく伝わらなかったよう。

握っていたナイフを置いて、自分の口の端をとんとん、と指さす。小さく口を開いて「付いてますよ」と言うと、ようやく伝わったらしい。何一つ顔色を変えないままナプキンを手に取った社長がソースを拭き取った。そして一言。

「ほらな。俺だって完璧じゃない」

確かにそうですね。小さく笑い返しながら、同じように笑い返してくれる社長に目を向ける。

幻なんかじゃなかった。社長は優しい笑顔の持ち主だった。

送信中です

×

※コメントは最大500文字、5回まで送信できます

送信中です送信しました!