病室にはもうあきた。外へ出たい。そう思うようになっていた。あの薬の後遺症のせいでところどころ記憶障害が出ていた。そのせいで今一つ自分の置かれている状況というのがよく分かっていなかった。
コンコン――
「はい、どうぞ」
貸し切りの個室の病室。そこへ入ってきたのは馴染みの顔だった。
「なまえ、具合はどうだ?」
「うん、わりといいよ。いつもありがとうね」
差し入れだとお菓子の詰まった小さな袋を私の方へ差し出したのは戦桃丸だった。よいこらしょ、と大げさなぐらいのかけ声で彼はベッド脇の丸イスに座る。イスが壊れてしまうんじゃないか、と少し冷や冷やした。ギシリ、結構いっぱいいっぱいな音がしているけれど壊れるまではいかないみたい。ごめんね、となんだか不憫になって丸イスに心の中で謝った。
「なまえ? 聞いておるか?」
「ん、あぁ。ごめん。聞いてなかった」
「体調がいいようなら、明日、明後日で研究所の方へ移動しないか?」
「んん、別にいいけど。ここじゃだめなの?」
本部から研究所まではそれなりに離れている。船に乗って数日航海しなければならない。少し、危険ではないだろうか。戦桃丸がいるなら大丈夫だとは思うけど……イスに座る戦桃丸に目を向けたらどこか落ち着きがない様子で、視線が合うとそらされた。目が泳いでいる。何か、隠しているときの仕草だった。
「はいはい、ばればれです。隠すならもう少し上手にかくしましょうね」
小さい子に言い聞かせるように言って、にこりと笑ってみせた。そうしたら、焦ったようにさらに視線を泳がせた戦桃丸。それでもジッと視線を送り続ければ、観念したように口を開いた。
「わいは口も固い」
「うん、知ってる。でも、ちょっと抜けてる」
ふふふ、そして、私には甘いんだよね。
「それって私が傷つく話? 私の記憶が飛んでいるところの話でしょう?」
「……」
「いいから話して。私も私自身のこと、ちゃんと知りたい」
「……わいは、」
「いいよ。戦桃丸が話したくないのは私を想ってのことだって知ってる。けど、想うなら余計に話して欲しい」
ね? と困ったように笑ってみせた。そうしたら、泣きそうな顔の戦桃丸がすまねぇと鼻を啜った。
「覚悟してきけよ」
「うん……分かった」
海戦2時間あまり、海兵負傷者200名。
討伐対象、海賊船4隻。
海賊100名(内、捕虜1名含む)。
そう、私は討伐対象だった。
「おじきがお前を止めた」
「……うん。うっすらだけど覚えているよ。ボルサリーノさんが私を止めてくれた」
負傷者200名、その内150名ほどが私の能力によって体を溶かされていた。
「幸いなことに死者はいねぇ。ただ、お前に触れられた者のほとんどは手・足・顔、そういった体のどこかが腐ったようになっていた。全力で治療を行ってはいるが、元の皮膚に戻るどころか、そこからどんどん浸食が始まっていっている」
「……」
「なまえ、ここは危険だ。すぐに、できれば明日にでも外へ出よう」
「なんで?」
「……言わなくても分かるだろ」
「……」
戦桃丸の目は鋭く私を見ていた。本気で私を案じてくれているのがとても伝わってきた。なるほど……私は海兵の敵になってしまった、というわけか。意図してなったわけじゃない。でも、結果的にそうなった。みんなの仲間を傷つけてしまった。顔見知りだっていたはず。二度と自分の足ので歩けなくなってしまった人だっているはず。代われるものならどんなに。でも、今その人の前へ出ていって謝ったって、それはただの形にすぎない。代われるわけがないのだから。そんな気休めをするぐらいなら、もう二度と目の前に現れないでくれ。そう思うのが普通だろう。
「っ、」
ガンッ――
苛立ちは一気に膨れ上がる。自分の不甲斐なさをぶつけるように病室の壁を殴った。
「なんで、こんなことに……」
頭を抱えて嘆いてみても結果は何一つ変わらなかった。
「お前の置かれている状況は最悪だ。敵のど真ん中にいるようなものだ。……分かったろ。明日、ここを発つ」
「……うん」
「荷物はこれだけか?」
病室の隅にまとめられていた袋。
「うん、これだけ」
「よし、じゃあ今日はもう寝ろ。いろいろあって疲れただろ?」
「…………うん」
おやすみ、そう言って戦桃丸は私の額に手を置いた。
「おやすみ」
きっと上手に笑うことはできていなかっただろう。それでも自分の中の精一杯の笑顔で私はほほえみ返し、目を閉じた。まだ寝るには早すぎる時間帯だったけれど、戦桃丸の言った通り、いろいろあったせいなのか、すぐに眠りにつくことができた。
ドンッ、ドンドンドンッ――
ドンッ、ドンドンドンッ――
夜の静かな病棟に聞きなれない物騒な音。ドアが破られる。すぐに理解した。けど、なんだか……どうでもよくなってきてしまって。ベッド脇には愛刀が戦桃丸の手によって置かれていたけれど、それを手にする気力も湧かなかった。
ドンッ、ガシャッ――――ン
あ~あ。ついにガラスを割ってしまったのか。こんなに盛大な音を出したら夜襲もクソもないんじゃないだろうに。はぁ、とため息がこぼれた。素人か。
「いた」
「寝てるわね」
「今のうちに」
「うん、今のうちに」
殺してしまいましょう。
ゾクッ――
素人でも殺気、憎悪というものは人を恐怖へと陥れることができるらしい。先ほどまで夜襲に対して涼しい顔をしていた私もその腐ったような憎悪に完全に飲まれていた。
ヒヤリ、首へ。ペタペタと腹へ。痛いぐらいの締め付けが手首、足首へ。その憎悪が各部位へ触れたのが分かった。怖かった。死ぬのが怖いんじゃない。人間の憎悪の対象になったのが怖かった。目を開くことができなかった。その憎悪に満ちた人間の目を見るのが怖くて。
「っ、」
ピリリと痛みが腹に走った。おそらくナイフのような鋭利なものでス――ッと切られた。心臓の鼓動が一段と早くなったのを感じた。
「血が出ましたわ」
「ほんと! 化け物の癖に赤いわ」
「あぁ、きっと。きっと人間のフリをして、私たちをだましていたんだわ」
そうだ。そうだ。化け物だ。
化け、物……?
「っ、た……」
パァンッと音が鳴った。頬を叩かれた。
「ふふふ、今声を上げた? 痛い? っふふふ、もっと痛いことしてもいい? だって、化け物なんだから。大丈夫でしょう?」
ほぉら。
「っ、き”ゃぁあああああああ!!!!!」
肉を、脹ら脛の肉を少し削り落とされた。そんな感覚だった。
痛い。痛い。痛い。痛い。
……痛い。
自分の中で憎悪が生まれて、育って、渦巻いていくのを感じた。なんとなく感じたことのある感覚だった。分かっていた。その感覚をまた取り戻してはいけないって、でも。ここから逃げるにはもう、そうするしか。
「……や、め……て」
「やめて? じゃあ、私たちの旦那を元に戻してよ。元気なあの人を返してよ。ねぇ。ねぇ!! なんで!? 友人を助けるんだって、友を、仲間をって。そう言って、助けに行った人をなんで!?」
グッ、と胸が押し潰されるような気持ち。
「っ、」
私は……
「化け物、化け物。せめて、死んでよ。いっぱい、いっぱい苦しんで、死んで?」
私が死んだらこの人たちが救われるの? 私が死んだら償いができる? なら、私は……。
「死んで、死んで」
「っ、あぁ”あああああああ!!!」
いっきに数本のナイフが体に突き立てられた。体が悲鳴を上げ、自分でもよく分からなくなるぐらい痛みのせいで暴れた。
「あぁ!! うわぁああ”!!!!」
ガンッ、ガンッ――
何度も何度も頭を壁に打ちつけた。そうしないと出てくるから。
「何事だ!?」
ようやく上のお偉いさん達が事態に気づいたらしい。パッと明るくなった室内。そこは惨状だった。血塗れの天井、壁、床。ナイフを持ってカタカタを震えている数人の知らない女。半分体を溶かしていた私は、おそらく本当の化け物に見えていただろう。
先だって入ってきた者の後ろに続く部下達は現状の悲惨さに口を押さえ、目を背けていた。見たくないものを見てしまったというように。それでもしっかりと2本の足で立ち、物怖じせずにこちらを睨みつけてくる男が一人、見たことのある人だった。
「お前は、確か……、ボルサリーノの部下だったか」
少し距離をおきたくて後ろに数歩下がったら窓ガラスに背中が当たった。ドロドロと蠢く自分の体がガラスに映っていた。
さぁ、変身の時間だよ? ――
調子のよい、声の高い男の声がどこからともなく聞こえてきた。はい、船長。
殺せ、海兵を殺せ――
目の前にいる海兵を認識した途端、体が勝手に動いた。溶かさないと、敵をすべて溶かしてしまわないといけない。船長のために。まずは一人目、先ほどからこちらを睨み続けている男を殺してしまおう。勢いよく飛びかかった。
「っ、!?」
……おかしい。
確かに手を掴んでいるのに男の手は溶けていない。なぜだ?
「どうした、その程度か?」
フッと口元をつり上がらせた男は呆気に取られてその表情を見つめていた私の腕を掴み、捻りあげた。
「っ、あっ……」
「弱い、弱いな……、化け物とはほど遠い……」
え?
結局、私の意識はそこで途切れてしまった。プツリ、背中に刺されたのはおそらく鎮静剤か……、また薬。強制的に睡眠へともっていかれてしまった。
目覚めたくなかった。またあの悪夢を見てしまいそうだったから。このままずっと、ずっと閉じこもっていたかった。
「いや、むしろここに残って力の使い方を覚えるべきだ」
「いいや! これ以上こいつを危ない目に遭わせるわけにはいかねぇ!!」
「それではいつまでたっても彼女は前へ進めないだろう!」
「くっ……」
なんでこの人達はこんなに必死なんだろう。自分のことで声をあらげて言い争ってもらっているはずなのに、どこか他人事のように思えて仕方がなかった。
「じゃが! こんな、こんなことをされたなまえをわいは……」
「…………せんとう、まる」
私なんかのために泣かないで、と言いたかったけど。最後まで言葉が出てこなかった。頭に靄がかかったような感覚で、言葉を発するのにもかなりの体力を使うようだった。
「なまえ!?」
「目を覚ましたか」
「……はい」
当然体は動かなかった。ぴくりとも。目は動いたのでくるくると視線を回して部屋の中の確認をした。病室じゃなかった。
「ここは?」
「大将黄猿の執務室の簡易ベッドだ」
あぁ、それでか。なんか懐かしい香りがすると思った。
「大丈夫か?」
「うん、たぶん」
痛みはなかった。おかしなぐらいに。
「薬が効いているのだろう」
また薬……
キィ――――
部屋の扉が開いた。コツンコツン、ゆっくりとこちらに向かって進んでくる足音にホッとした。その人は私にとって光そのものだから。
「なまえちゃん、目が覚めたんだねぇ~」
「ふふふ、相変わらずですね、ボルサリーノさん」
素直に、心の底から。自然と笑みがこぼれた。よかった、私まだ笑える。まだ人間だ。
「傷は痛むかぁい?」
「ううん、薬が効いているらしいから。何にも」
「……何にも?」
「うん、なぁんにも、感じない」
「……それは、よくないねぇ……」
クイッ、ボルサリーノさんは戦桃丸の隣に立っていた男の人に向かって顎をしゃくりあげた。ついてこい、って言っているのかなぁ。その意味をすぐに理解したその男はスッとボルサリーノさんの後ろを追うように部屋から出ていった。
「あの人、誰だっけ……」
「ん、あぁ。モモンガ中将だ。わいとおじきとなまえと。3人の迎えに船を出した人だ」
あぁ、そうだ。そうだった。あの時、話をした人だった。そこまで思考が回ったところで頭の活動限界がきたのか、瞼がどんどん下がってきてしまって。
「なまえ?」
「ん、なんだか眠くて……」
「いい、今は寝ておけ」
「……うん、おやすみ。戦桃丸」
「おやすみ、なまえ」
額に置かれた手の温もりを感じたら自然と目から涙がこぼれていった。なぜかは分からなかった。
数日後、体を起こせるようになった。その数日後、歩けるようになった。まだ松葉杖が必要だったけれど。そのまた数日後、普通に生活できるようになった。
「調子はどうだ?」
「モモンガ中将。おはようございます。だいぶ感覚が戻って……」
クラッ、突然襲ってきた目眩。
「おいっ」
腕を捕まえたおかげで床に倒れ込むことは避けることができた。でも、体に力が……
「あ……すみません。ちょっと油断していました」
「油断……?」
「いいえ、こっちの話なのでお気になさらずに」
支えて貰っていた手の上に手を重ねて大丈夫ですからと笑って返す。……ならいいがと身を引いた中将の額には深い皺が刻まれていた。
「その手袋は?」
「あ、えっと。ちょっとやけどをしてしまいまして、空気に触れていると痛いので……」
「医者には見せたのか?」
「い、いえ。でもそんなに大した怪我じゃないので」
「……」
それ以上しつこく言うのもどうかと思ったのか、そこまで言い切ったところで中将は開きかけていた口を閉じた。そういう気遣いはすごくよくできる方だったので助かった。チクチク、いや……じわじわ? なんと表現したらいいのか分からない慢性的な痛みが手袋の下の皮膚を襲っていたが、表情一つ変えることなく笑って見せた。もう演技も慣れた。
「無理はするなよ」
「はい、大丈夫です」
:
私は本当に化け物になってしまったのではないか――
ある朝目覚めた時にそう思った。
ガラリ、と勢いよく部屋の扉が開く。
「なまえちゃん、おはよう~」
「おはようございます、ボルサリーノさん」
あの事件以降、私はボルサリーノさんの執務室にある簡易ベッドで寝起きをしていた。夜は怖くてこの部屋から出られなかった。今はこの部屋の香りが唯一私をここに引き留めてくれている気がして、ここを離れてしまったらまた声が聞こえてきそうな気がして、怖かった。
「今日は早いですね」
「今日はねぇ、早朝から会議があるんだよぉ。わっしが出ないと始まらないらしくてねぇ」
「早朝から会議? 珍しいですね。何時からですか?」
「ん? 7時からだって確か言ってたねぇ~」
「……あの」
柱時計の時刻は8時。大遅刻だ。
「ん、どうしたんだ~い?」
それでも変わらずのんびりと会議の準備を始めるボルサリーノさんに声を上げる。
「ちょっと! 時間!!」
「時間?」
「はい、あれ見てください。もう8時ですから! 1時間の大遅刻ですから!」
「あれぇ? ほんとだねぇ……」
くそう。この人なんでこんなに焦らないの!?
もう! とため息を吐き出しながら急いでベッドから降りる。
「どうしたのぉ、なまえちゃん?」
「どうしたのぉ? じゃ、ないです! はい、行きますよ!!」
はいはいはい、と言いながらボルサリーノさんの背中を押す。開きっぱなしのドアから外へ出て、すでに会議が開かれているであろう会議室へとそのままぐいぐいと押していく。
「ちょ、もっと早く歩いて下さいよ~! ボルサリーノさん、体でかいんですから!」
「んん~、そんなに急がなくて「急いで下さい! 大遅刻なんですから」……もう、なまえちゃんには敵わないよ~」
少し大きめの扉。その前までボルサリーノさんを押してコンコンと軽くノックする。入れ、聞こえたのは恐らくセンゴク元帥の声だろう。
「……遅い」
「おぉ~、遅くなっちゃってぇ~」
ボルサリーノさんが入ったのを確認して急いで扉を閉める。ペコリ、誰と目が合ったわけでもなかったけれど軽く会釈をしておいた。
「じゃあね、なまえちゃん」
パタリと扉が閉まりきる間際にそう聞こえたけれど、返事をするのはやめておいた。こんな厳粛な会議でそんな態度が取れるボルサリーノさんのふっとい神経がが羨ましいと心の底から思う。
「ん?」
振り返り足を一歩踏み出したところであの中将に会った。向こうもこちらに気がついたようで、私の顔を見て小さく首を傾げていた。
「どうした、その格好は」
「え……?」
言われてみれば。ベッドから起きてそのままここまで来てしまったから、服は寝間着のまま。髪はぼっさぼっさだった。うわ、恥ずかし!! この状態で歩き回っていたのか!!
「あ、えっと、その~ボルサリーノさんが会議に行こうとしないもので……」
「それで身だしなみを整える時間も惜しんでというわけか?」
「あ、はい」
怒られるかと思った。でも……
「ははは、そうか。それはいい部下だな」
変なところで笑うものだから、少し驚いてきょとんとした目で見てしまった。そうしたら、なんだ? と同じくきょとんとした目で見られてなんだかおかしくなって笑いそうになってしまう。慌てて口元を手で押さえて緩みそうになるのを抑えた。あんまり笑っていたらバカにしたとか思われちゃうかもしれない。
っ、くしゅん――、くゅん――
「おい、大丈夫か?」
「あ、は……ハックシュンっ……あはは」
まったく……と困ったような顔をされてしまった。呆れられたかな?
「もう季節は秋だ。朝は冷える。これでも羽織っていろ」
そう言って中将は羽織っていたコートを肩にかけてくれた。
「い、いえ! とんでもないです!」
「いいから着ていろ。まだ体調もよくないのだろう?」
最後の方は口調が強くて、これ以上は言わせるなと無言の圧力がかかった感じがした。……なので、ちょっと私のは大きすぎると言いたかったのを我慢し、小さくうなづいて返した。
「……」
やっぱり大きい。
「これでは子供だな」
ムッ……
「いくら中将とはいえ失礼です! 私これでも立派な女なんですから! 確かに背も胸も小さくてそうは見えないかもれないですけど……」
中将……?
私の顔を見ながらにっこりと笑ったモモンガ中将は私の隣を通り抜けていった。数メートル離れたところでコツンと中将の足が止まり、こちらに振り返る。
「せっかくだ。俺の部屋がすぐにそこにある。体を温めるために寄っていけ」
「このまま歩きだしますと、コートで床を掃除する形になりますがそれでもいいですか?」
「あぁ、いい。風邪を引かれるよりはましだろう」
さっさと行くぞというように早足で歩きだした中将の後ろを慌ててついていく。できるだけ引きずらないようにとコートの裾を抱えて歩いたけれど、やっぱり少し引きずってしまってなんだか申し訳なかった。
「失礼します」
「どうぞ、遠慮なく」
そういえば、今更だけど、ボルサリーノさん以外の執務室に入るのが初めてだなと思う。作りはほとんど一緒。窓の場所が少し違うぐらいかな。あとは小物とか、その人の個性が出るところが少し違うぐらい。ここはボルサリーノさんの部屋に比べたら物が少ないかな。
「向こうに洗面台がある、気になるなら軽く整えるといい」
「ありがとうございます」
なんとなく見られたくなくて、顔をうつむけるように意識していたのがバレてしまってしたのだろうか。その気遣いに感謝する。
「君はコーヒー、紅茶、どちらかな?」
「紅茶でお願いします」
おい、お願いしますって。言ってから、中将に入れさせてるよ私と後悔する。あぁ分かったと手慣れた様子で進めていく様子にそれ以上言葉をかけることはできなかった。
軽く、本当に軽く身だしなみを整えて、来賓用のソファに座る。もう少しだという声にゆっくりで大丈夫ですと返し、先ほど引きずってしまったコートを確かめていた。うぅ、やはり。海軍のコートって白いから汚れがとても目立つんだよね。うわ~、端黒くなっている。どうしよ、洗って返そうかな……。
「すまない、遅くなった」
「ありがとうございます」
ちょっと驚いた。
「ん? どうした?」
「いいえ、いただきます」
出てきたカップは有名なブランドのものでなかなか目を引くデザイン。可愛い。白ベースに淡い花の絵柄がとても素敵だった。カップを口元に運ぶと紅茶の香りがすぅ――っと鼻を刺激し、一気に気持ちが落ち着いた。ゆらゆらと上がる湯気。確かめるように紅茶の色を確認したあと、ゆっくりと目を閉じて流し込んだ。
「美味しい……」
「それはよかった」
嬉しいのかな。いつもは見せない笑顔にこちらも笑顔になった。本当はよく笑う人なのかもしれない。表舞台で見たときはいつもしかめっつらをされていたから、てっきり怖い人だと思っていた。そのことに少し反省する。
「それで、この手の説明をして貰おうかな」
ニッコリとそれはもう素敵な笑顔でしばらく見入ってしまった。その後、左手を絡み取られる。ピリリ、と走った痛みで現実に返った。ワッ、と体中から汗が噴き出したのが分かった。しまった……
笑顔に見とれている隙にはめていた手袋を抜き取られていた。そこには醜い黒い染み。よく見るとざわざわと表面が波打っていた。
「っ、……」
「これは?」
「……、なぜ中将に話す必要があるのでしょうか」
「……確かにな」
ジッと切れ長の瞳が貫くようにこちらを見ていた。ゴクリ、唾を呑み込んでそれに耐える。
「いつからだ……」
「……言えません」
「あの事件の後からか?」
「……」
「なまえ、と言ったな」
「……はい」
「このままじゃ能力に負けるぞ」
「っ、」
分かって、いる。そんなこと分かっている。グッ、と奥歯を噛みしめて目の前の人を見た。でも、どうしようもないもの。
「放っておいて下さい。中将には関係……「ある。あるだろう」」
「俺がミスをした。悪魔の実を乗せていると知っていながらおまえ達を乗せた。その結果、こうなった」
「分かるだろう?」眉を潜めて中将は言った。
「憎むべきなのはお前じゃない、俺だ」
「……」
そうかもしれない。元を辿ればそうかもしれない。でも実際に行動したのは私なのだ。だから……どうやっても中将を憎むなんてことできない。運悪く、助かるポイントで選択ミスを連続させてしまった、これは完全に私のミスだ。
「そんなこと、できないですよ」
顔をうつむけてそう言った。数回、首を横に振った。それが精一杯だった。
「顔を上げろ」
「……」
「以前、船の甲板でお前に会ったとき、お前の瞳には光があった。しかし、今は……その光が見えない」
「それはどういう……」
「生きることをあきらめるな。今のお前は前を見ずに後ろばかり見ているだろう。こっちは長年色々な部下を見てきている。だからお前の状況がなんとなく分かる。……卑屈になるな。怖がるな。もっと前を見ろ」
その言葉にハッとした。
中将が言う一言一言がゆっくりと頭の中に入って来て。じわりじわりと胸にこみ上げてくるものがあった。それは次第に大きくなり、涙としてこぼれ出ていった。ポタポタとあふれ出て下へ落ちていく。
「っ、ひっく……、ひっく……」
堪えきれなかった。子供が泣くみたいにしゃくりあげて泣いたのはいつぶりだろう。ポンッと左肩に置かれたのはおそらく中将の手だ。その手に自分の右手を添える。
「うわぁぁぁぁん!!!」
きっと自分でも分からないぐらいに自然にため込んでしまっていたんだと思う。それで一人でため込みすぎて潰れそうになって。中将はそれに気づいてくれたんだ。涙でなんだかもうよく分からなくなった視界で中将の顔を見た。そうしたら、頑張ったなと小さな声で言ってくれた。嗚咽で言葉を返すことができそうになかったから、強く大きく縦に首を振った。何度も何度も。
「いい、分かった。取りあえず、落ち着け」
トントン、と背中を叩いて促される。そうだ、こんなに声を上げて泣いていたら迷惑だ、と今更我に返った。スンッスンッと鼻を啜り、目に溜まった涙を拭った。
「っ、…………あれ?」
じんわりと傷に染みるような感覚があったので左手に目を向けた。その時に気がついた。
染みが消えて……?
手の甲全体を覆っていた黒い染みが親指の側の半分のところだけ消えていた。ちょうど涙を拭ったところ……。もしかして、そう思い、目に溜まった涙を右手の中指で拭い、残りの黒い染みの部分に塗り込んでみた。
ジュワッ――
音とともに染みが消えた。
「あれ、染みが……」
「おいっ、まさか!!」
うん、とうなづいて返す。
「染みが消えました……」
まん丸と見開いた目。しばらく口は開いたままになっていた。あまりにも突然のことで、頭がついていっていなかった。

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