つねりゃ紫喰いつきゃ紅よ色で固めたこの体

差していた傘が雪の上にトサリと落ちた。未だ降り続けている雪の一粒が頬に当たりじんわりと染み込んでいく。その冷たさが恋しくなるほど私の頬の紅色は色鮮やかになっていた。

目を開くサカズキさんの顔が瞳に映り込んだ後、私の体はあっという間に真っ白なコートの中、真っ赤なスーツの元へと倒れ込んだ。ぎゅう、と強く締め付けられる。背中に回る彼の手は私の全身を余すことなく抱きしめてしまおうとさぐるように動いた。こんなにも背丈が違うのだ。彼は抱きしめる力加減も分からないのかもしれない。少しばかりキツすぎる包容になんだか胸が暖かくなる。なんかすごく大切にされている気がする。あぁ、なんて……なんて可愛らしい人なのでしょうか。

ぎゅ、と両手に拳を作る。はぁ、と堪らないという風に吐き出される吐息がすぐ近くで聞こえた。すん、と鼻をすする音も。彼は何も言わずただ無言で私の体を抱きしめた。きっとなんて言えばいいのか分からないのだろう。ならば私から言ってしまえばいい。

「あの……」

そう思考は巡っていった。でも、でも……いざ言おうと思ったら言えなかった。そこには複雑に絡み合う心境があって、私はまだどこかで彼を憎んでいるのではないだろうか、という不安が続くはずの言葉の邪魔をした。結局、何も言えなかった。

拳を解き、開いた手のひらでそっと彼の腹を押す。少し緩んだ腕の中、サカズキさんを見上げた。彼は切なそうに顔を歪めていた。触れてはだめだ、と頭では分かっていた。ゆるゆると伸びていく私の右手をサカズキさんの目が追う。その手は彼の頬にたどり着き、その骨ばった頬を優しく撫でつけた。

しとしとと降り注ぐ雪の中。彼と私の回りの雪だけがゆっくりと溶けていった。まるで二人の想いの熱さを物語っているよう。驚くほど熱を持ったその頬を愛おしく想う。冷えきっていた手にじんわりと熱が戻っていくのを感じた。ついに触れてしまった。じんわりと溶けていく胸の想い。それが涙となり頬を伝う。視線が絡み合えば、悲しげに目を細めたサカズキさんがぎゅ、と下唇を噛みしめていた。何か、言わないと……そう思った。視線を下げ、目を伏せる。決心して口を開こうとしたその時、ゴクリを唾を飲む音が聞こえた。思わず顔を上げる。再び目が合えば、サカズキさんがぎゅ、と目を閉じる。そして、ゆっくりと目を開き、視線を逸らしながら言った。

「ちゃんと前を見て歩け」

その瞬間、パッと離された体。とん、と体が後ろに下がれば二人の間を冷たい風が通り過ぎる。言い出せない苦しい想いに視界が歪んでいく。声に出せない不甲斐ない自分が嫌だ。拳を握りしめ、涙を拭う。その瞳の先には変わらず彼がいる。視線を逸らされて距離を取られても、それでも私はサカズキさんをジッと見続けた。サカズキさん、私は……。一歩足を踏み出す。ザクッという音に小さく反応したサカズキさんは相変わらず顔を伏せたままだった。彼は右足を少し後ろに引いて体を反転させて言った。

「……行くぞ」

漏れそうになる嗚咽を我慢し、はい、と小さく返事を返した。涙で声が震えた。彼は側に落ちていた傘を拾い、何事もなかったかのように歩きだした。その後に私も続いた。何事もなかったかのように。

玄関に着けばようやく冷えきった空気から解放される。ピシャリと戸を閉めてしまえば屋敷内の暖かな空気に全身が包まれた。ほっ、と気持ちが和らいだ。傘を閉じて体に積もった雪を払う。同じく雪を払っている最中のサカズキさんに向かって言った。

「すぐに取って参りますので、こちらでお待ち下さい」
「あぁ、」

では、と足を踏み出したとき、サカズキさんが重い口を開いて言った。

「先に着替えて来い」
「え……でも、お待たせするわけには……」
「えぇ、わしはそんな柔な体じゃないけんのう」
「……では」

小さく頭を下げて前を向き、玄関から伸びる長い廊下を力の入らない足でとぼとぼと歩きながら思った。サカズキさんの真意が知りたい、と。父のことがあったからだろうか、本当の貴方はどちらなのか、その優しさを疑う私がそこにはいた。もしこっちが本当なら……なんで貴方は……。違うならこれは演技だとでもいうのでしょうか。……分からない。もう分からなくってしまった。

自室の部屋の戸を閉め、小さなため息を吐き出した。帯に手をかけてゆっくりと解いていく。すっかり濡れてしまった着物の袖から腕を抜き、スルリとすべり落ちた着物を前にあぁ、どうしてこうなってしまったのだろうか、と一人頭を抱えた。
 
 
 

 
 
― サカズキ視点 ―
 
 

 
 
とっさに伸びた腕。気づいたら触れていた。女独特の柔らかな感触と腕の中に納まっている人物の存在にカッと胸が熱くなる。どれほど触れたいと思っていたことか。毎夜夢に見てしまう程だった。夢の中では彼女はただただ微笑んでいた。そうして、その肩をそっと抱き寄せる。ただそれだけの夢だった。そこはどこかの屋敷の縁側で、目の前には美しい垂れ桜が咲き乱れていた。圧巻の景色を見ながら肩を寄せ合い、彼女は言うのだ。

「貴方と一緒になってよかったです」と。「あぁ、わしもじゃ」そう返した後、いつも決まって目が覚めた。残ったのはあの暖かな空間の残響とそれを手に入れることができない、という絶望だった。一体どうやれば手には入るのか、彼女と一緒になれるのか。彼女の微笑みを見ることができるのか。彼女と共に生きていくことができるのか。彼女と……。

分からなかった。口から出す言葉すべてが彼女を傷つけている気がした。今まで何気なく口に出していた言葉が暴力そのものだったと自分でも思っている。それぐらい周囲に配慮したことがなかったのだ。優しい言葉など、そんなものかけたことがない。その言葉のかけ方も分からない。

女になんと言ってやればいいのか、なんと言えば微笑んでくれるのか、分からなかった。……苦しい。体が熱い。彼女と視線が絡み合った途端に我に返る。ぎゅ、と目を閉じた。何をやっている。彼女が泣いているではないか。怖がらせてどうする。すまん……詫びの一言すら口に出せない自分が不甲斐ない。視線を逸らしながら細心の注意を払って最低限の言葉を並べた。そうして慌てて体を離す。なのに、どういうわけか、彼女の瞳の滴がなくなることはなく。むしろその量は目に見えて増えていった。こぼれ落ちていく涙を前にどうすればいいのだと立ち尽くした。逃げるようにして体を回転させる。そうだ、……わしは逃げ出したのだ。

なんと情けのない男か。玄関に一人立ちながら、大きなため息を吐き出した。

「……おや、これは珍しいですね」

海兵のお偉いさん、と掠れた女の声。じろり、と目玉を動かして声のする方向へ顔を向けた。そこにはにっこりと口元に笑みを浮かべ、姿勢良く凛とした佇まいでこちらを見据える老婆が立っていた。

「誰じゃ……?」
「まぁ、これはこれは……。ご挨拶がまだでしたね。私はこの屋敷の娘達の取りまとめをやっております。ヤスと申します」
「……わしに何のようじゃ?」
「私の可愛い娘が一人、悩んでいるものですから、少し心配で。お節介とは思いつつも……」

そう言いながらその老婆は小さく一礼し、その場で膝を折る。何をしようというのか。そうして、さぁどうぞと言わんばかりに手を伸ばし、そこへ腰掛けるようにと合図を送ってきた。話につき合えということか。その行動の意味に気づき、面倒だと眉間に皺を寄せる。その様子を見てそれでも変わらずにっこりと笑みを浮かべている老婆を苦々しい表情で見つめた。その言葉通りに行動することはしゃくだったが、それ以外にすることもない。仕方なくその言葉に従ってその場に腰を下ろすこととなった。

「……なまえの父は海兵でした」

老婆のその第一声に俯きかけていた顔が思わず上がる。それに反応することもなく老婆は淡々と言葉を並べていった。それは歴史だった。一人の女の歴史。追想の話だった。
 
 
 

 
 
― なまえ視点 ―
 
 

 
 
着替えを済ませ小走りに玄関に向かい、大変お待たせしました、と腰掛けていたサカズキさんに声をかけた。座られているということはかなり待たせてしまったということなのだろう。申し訳ないという気持ちを込めて深く頭を下げた。顔を上げた後、サカズキさんと視線が絡み合う。こちらに向けられたその瞳が小さく揺れていた。何かがおかしい。そう感じた。首を傾げながら少し顔を動かせばいつの間にかそこにいた大婆様が目に入った。なぜ、ここに? ゆっくりと立ち上がりながら大婆様が言う。

「では私はこの辺で」
「……あぁ」

一体何を話していたのだろうか。重々しい空気のせいでその一言を口の奥へ飲み込んだ。大婆様がいなくなった空間には私とサカズキさんの2人きり。唇を噛みしめて近くへと歩みを進めていく。サカズキさんがゆっくりと立ち上がった。

「これ……」

風呂敷に包み込んだ羽織を前へ差し出す。サカズキさんは私の手の上にある風呂敷をしばらくの間ジッと見つめていた。どうしたのだろうか。眉を寄せつつその様子をうかがう。

「……恨んでおるんか」

え?

何を? 誰を? なんで? え? と始めはその問いの意味が理解できなかった。黙り込んでいたら、スッ、と息を吸い込んだサカズキさんがもう一度言った。

「父を見殺しにしたわしを恨んでおるんか?」

え? なんて? 身動き一つ取れず、ただただ呆然と目を見開いてこちらをジッと見据えているサカズキさんを見た。風呂敷が手の内から滑り落ちていった。バサッ、と落ちたその音でハッと我に返る。

「あ、ごめんな……「どうなんじゃ?」っ、」

今までにない迫力のある声にぎゅ、と身が縮こまる。その圧迫感のある声に少しながらも恐怖を感じた。生理的に浮かんできた涙で瞳が潤む。ごめんなさい、と自然と出た言葉。それを聞いた瞬間、目を見開いたサカズキさんの顔。その後の彼の顔が目に焼き付いた。今にも泣き出してしまいそうなぐらい、彼の顔は悲痛に歪んでいた。

「邪魔したの……」

カッカッカッと大股で力強い足音が鳴り響く。待って下さいの一言をかける暇もなく、サカズキさんは出ていってしまわれた。へなへなと力が抜けてその場にへたり込む。……私の馬鹿。なんで言わなかったの。なんで……。顔を向けた先にはぽつんと佇んでいる彼の忘れ物があった。

「っ、」

また泣くのか、私は。まるで子供が大切なものを取られてしまったときのようにわんわんと声を上げて、嗚咽を交えて、しゃくり上げながら、泣いた。

「ばかばかばかばかぁっ!!!」

……サカズキさんを傷つけてしまった。

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