諸恋ひ

もうひとつの諸恋ひ

     ― ヤス視点 ―   「そうだったのですね」「……あぁ」電話越しに聞く声はもうだいぶ嗄れていて、あぁ……私も貴方ももうだいぶ老いてしまったのね、と時の流れを強く感じた。「その娘は……」電話の向こうの声がそこで止まる。今貴方が何を思…

春のひと日をつい飲みたおれ花とふたり寝して戻る

「さぁ、。笑って! ほら、笑ってあげて!」ねぇ、?きゅ、と冷えきった私の右手を握った姉様が崩れ落ちそうになる私の体を支えてくれた。耳元では私の名前を何度も何度も繰り返し言う姉様の声が聞こえていた。でもそれも深く耳には入ってこなかった。「なん…

どうせ互いの身は錆刀切るに切られぬくされ縁

二度目の冬が過ぎ、季節が変わった麗らかな今日。私は遊郭を出ることとなった。薄暗い部屋の中、「おめでとう」と声をかけてくれる付き添いの女達。少し哀れむような、そんな視線にぎゅ、と目を閉じて耐えた。「ありがとう」そう言いつつも、にっこりと返した…

つねりゃ紫喰いつきゃ紅よ色で固めたこの体

差していた傘が雪の上にトサリと落ちた。未だ降り続けている雪の一粒が頬に当たりじんわりと染み込んでいく。その冷たさが恋しくなるほど私の頬の紅色は色鮮やかになっていた。目を開くサカズキさんの顔が瞳に映り込んだ後、私の体はあっという間に真っ白なコ…

積もる思いにいつしか門の雪が隠した下駄の跡

ザクッ、ザクッ一歩一歩踏みしめて歩く。ここへ来てすぐは歩き方も分からなくてよくすっ転んでいたっけな。冬ごもりが始まり、ここ数日はずっと屋敷の中で過ごしていた。でもそれにももう飽きてしまって、屋敷の籠もった空気に耐えかねて外へ出て来てしまって…

おろすわさびと恋路の意見きけばきくほど涙出る

ホウ、と一声。フクの合図だった。寒さに身を震わせながら戸を開ける。そこには縁側の上に降り立ったフクがいた。不器用に体を左右に揺らしながら歩み寄ってくるその姿に口元が緩んでいった。スッと細まった瞳に向かって言う。「ちゃんと渡せた?」"もちろん…

たった一度の注射が効いてこうも逢いたくなるものか

何度目だろうか、この街に来るのは。そう港に並ぶ数隻の船を見つめる。本部から遠いこの島へこうも度々用ができるとは、なんともおかしな話だと皮肉が頭に浮かんだ。分かっている。そんな用、自分でなくても済むことぐらい。ただ、なんとなく気になるからとい…

義理や人情が守れるならば恋は思案の外じゃない

その夜は座敷に上がらなかった。一晩中部屋で泣いた。なんで私は出会ってしまったのだろうか、と出会いを悔いもした。出会わなければこんなにも苦しむことも、かつて抱いていた黒い感情を思い起こすこともなかった。そして、あの人に心を奪われて、こうして苦…

義理も人情ももうこの頃は捨てて逢いたい欲ばかり

いつものように夜のお仕事に向けていそいそと身支度を整えていた。屋敷のとある部屋に数人の女が集まり着物を身に着けていく。私はといえば、早々に着付けを済ませ、後は仕上げを残すのみとなっていた。「。髪結ってあげましょうか?」私の姉様に当たる先輩遊…

およそ世間にせつないものは惚れた三字に義理の二字

昼間のこと。私たちの住む遊郭があるところは港から少し離れた小高い山の中程にある。整備されているとはいえ、山道は狭く、足場も悪い。女が着物を着て一人歩いて行くには不安が残る道だ。そのせいか、なかなか港の方まで出る気にはならなかった。でも今回は…

帰しともないお方は帰り 散らしともない花は散る

女は弱い生き物だ。男に比べたら力もないし、頭も弱い。それが事実なのか、それが虚構なのか。そんなこと確かめようがなかった。ただ、私はそのようにして教えられて育ってきた。それは事実だった。私の仕事はお店でお客を楽しませること。きらびやかな着物を…