いざ自分がその立場になって分かる不安。この手の中にある紙切れ一つで結婚というものはできるらしい。俺が思っていたものとは少し違う気がした。だが、隣に並んで座るなまえはとても嬉しそうにその紙を見つめていて。そんな野暮なことは言えそうになかった。
「ずいぶんご機嫌だな、なまえ」
「はい、スモーカーさん。だって婚姻届ですよ? これ間近で見たの初めてです。目に焼き付けておかないと!」
俺の両手で広げられているそれをなまえはこれでもかというぐらい凝視する。この紙はそんなに貴重なもんなのか?
「先に書くか?」
「あ、はい。そうですよね。書かないと先に進みませんよね。お忙しいのに時間を取ってしまってすみません!」
ここ最近のなまえはこんな調子だ。俺が仕事一筋だから気を使ってくれているのかもしれないが、2人でいるときぐらいそんな他人行儀なこと……あぁ、いや。まだ俺達は他人か……
椅子に座り、スラスラと書類の枠内を書き進めて埋めていくなまえの後ろ姿をジッと見つめる。俺が結婚か……。いつだったか、宴会の席でそんな話になったことが一度だけあった。あの時は確か、中将同士の顔合わせという名目だったか。それぞれ思い思いの考えがあることだけは分かった。全員の意見をひとまとめにするなら、「したくないわけではないが、いかんせん相手がいない」となるだろうな。俺もその中の一人だった。
もちろんその席では好きな奴がいるだなんて、そんなこと口が裂けても言えなかった。そんなこと言おうものなら翌日のつるし上げをくらっていただろう。まぁ、数人目を合わせないものがいたあたり、俺と同じ奴がいたとみたが。そのメンバーの中で俺が一番乗りというわけで、婚約の次の日は先の話のつるし上げと言うほどではないが、その日一日はその話題で持ちきりだった。俺が通る度に「例の……」だ。まるで悪者になった気分だ。
あのなまえちゃんの相手がスモーカーだなんて。まぁ、それが周囲の見解のようだ。……確かにな。
「できました。どうぞ、スモーカーさん」
書き終わったなまえが紙をこちらに差し出す。ペンを受け取り机に向かうとふふふと笑い声が隣から聞こえてきた。紙にペンを走らせながら聞く。
「その笑いは何だ」
「バレました? スモーカーさんがこうやって小さな机に向かい合って、小さな椅子に座って書いているところを見られるだなんてって思いまして」
「お前は毎回それだな」
「はじめは誰だってそうなりますよ。好きな人の初めての姿なんですもの。トキメかないわけがないです!!」
「……」
その根拠のない自信はどこから沸いてくるんだよ。
「書けたぞ」
「ん、どれどれ」
紙とペンを差し出すとなまえが目を通す。
「わ~スモーカーさん、字綺麗ですね! 素敵です」
「……殴るぞ」
「わっ、暴力反対です!」
腕を上げるそぶりをすれば慌てて防御態勢を取るなまえ。こうもムズムズするようなことを連発されたら居心地が悪くて仕方がない。ある意味拷問だ、まったく……
「……で、それでいいのか?」
「はい、後は血印ですね」
「血印か?」
「はい、判子持ってくるの忘れたので血印で」
「俺はともかく……なまえ、お前指切れるのか?」
「……私は無理です。なのでスモーカーさん、私の指を切って下さい」
「っは!?」
モワッと口から溢れる煙。慌てて葉巻を口から外し、火を消す。
「お前それ本気で言ってるのか?」
「はい、そうですけど……?」
んなことできるわけねぇだろ。
「……なまえ、今日はなしだ」
「え……?」
「紙はまた今度にする」
「なんでですか?」
「なんでって……お前……」
「やっぱり私じゃだめでしたか?」
「……」
まずい。言う言葉を間違ったみてぇだ。
「…………」
「スモーカーさん?」
「……勘違いするな。俺はこんな紙切れのためにお前を傷つけることはできないと言っているんだ」
「こんなって……これはッ」
「違う。俺にとってはこの紙は「たかが紙」に過ぎねぇんだよ」
「…………」
ジッとこちらを見つめる瞳にはうるうると涙がにじむ。あー俺はどうしてこう……言葉が下手なんだ。
「なまえ」
「……はい」
一歩前に進むとなまえが顔を下にうつむけてしまった。右手を伸ばし、なまえの左手を掴む。革の手袋越しなのになまえの手の柔らかさははっきりと分かった。
「正直結婚なんてどうだっていい」
「……」
「結婚より俺はお前の方が大切だ」
ぎゅっと手を握る力を強くする。そうすると俺の力の3分の1……いや、5分の1? それぐらい弱々しい力でなまえは俺の手を握り返した。もしかして、これがこいつの全力なのか? そう思うと、余計にこいつを守らなければと思った。
「なまえ、分かってくれるか?」
「……はいっ」
ようやく上げてくれた顔には一本の薄い涙の線とにっこりと弧を描いた唇があった。あぁ、良かった。なまえが笑っている。それだけで俺の世界は再び色づいた。

※コメントは最大500文字、5回まで送信できます