翌日――
それは、ミホークさんを送り出した後、変装をして本部の廊下をひとりで歩いていた時だった。
:
「お前、たしぎに何をした?」
低声と同時に生み出された殺気。まるで戦闘の最中に放り出されたようだった。反射的に体が動く。振り返ったそこに立っていたのはたしぎの上官――スモーカー大佐だった。射貫くようにこちらを見ている視線に疑念が生じる。なぜ、どうして、そんなことを聞くのか。
状況を把握するために視線を巡らせた。距離にして5m……いや、もう少し離れている? 何方にせよ、この状況で振り返って全力疾走したところで逃げ切ることは出来ないだろう。この男の目はどう見たって怒りに満ちている。そんな奴に捕まっては身が危険に晒されてしまうかのもしれない。……つまり、ミホークさんの身にも危険が及ぶ可能性があるということ……それはとても困る。
もわんと煙が吐き出され沈黙が流れる。質問の意図が分からないから迂闊に答えられない……というか、そもそも喋れない設定だし。この男もそれは承知しているはず……なぜ? 出来もしないのに腰にある飾りの剣に手をかける。今の私に出来ること、それは虚勢を張ることだけだと結論づいた。
「……俺とやる気か?」
私の行動を見て、一気に警戒レベルを引き上げた男が腰を落とす。まるで獣と対峙してるように、全身の毛が逆立った。
……どうやら、選択肢を間違えたらしい。
気付いたときにはもう目前に男の体があった。私に出来たのは手に持っていた剣の柄を横一線に振り抜くことぐらいで、それはおかしなことに男の体を綺麗にすり抜けていった。目を疑う暇もなく、体が壁に叩き付けられる。
――ぐはッ
肩に続いて頭、腰も順番に壁に殴打されて、側面全体に衝撃が走る。痛みが全身を襲った。あぁ、駄目だ――力の差が有り過ぎる。キ――ンと耳鳴りがして視界が霞んだ。
「……彼奴はどうだったと聞いても何ひとつ答えない。しまいには、スモーカーさんには関係ないの一点張り」
打ち付けられたのとは反対の耳の傍で微かに告げられる言葉。
「どう考えたって怪しい。お前、たしぎに何かしただろう。あいつが俺にあんな態度を取ったことは今まで一度もなかった。何か……縛りでもつけたのか、」
彼にとって、たしぎという部下は本当に大切な人なのだろう。大事な人を心配する気持ちはよく分かるから、できれば「分かりますその気持ち」と答えてしまいたい。……それはするべきではないと思う。でも……こうなってしまっては命の危険も見えてきたし、もう私の縛りは破ってしまってもいい……? どうしても決めきれない。
あぁ……たしぎ。ものすごく怪しいよ。精一杯、隠してくれようとしたんだと思うけど、不自然すぎるって。もう少し言いようがあったんじゃないか。嘘でもいいからそこは無難にやり過ごして欲しかった。……嘘をつけない子なんだろうな……。それなら仕方がないことなんだけど。
ははっ――小さく笑った。私は戦闘経験もないただの町娘だっていうのに
「…………?」
聞き間違いか? と首を捻る男の目が仮面の中の私の瞳を覗き込んだ。仮面の下で半分を痛みで引きつらせたまま、私は笑った。これはもう……。額を汗が流れていった。
「ちょうどいい…………この場で顔を拝ませてもらおうか」
男の手の平が視界を覆い尽くす。それだけは駄目だ――空いている手で咄嗟に振り払って精一杯抵抗した。それでもなお、押さえ付けられて、執拗に仮面に手が伸びてくる。今一度、大きく手を振るった。そうしたら――
パンッ――
「――ッ!?」
手の平がザリッと何かに当たった感覚。穴の中から見えた一瞬に映った男の顔。唇から頬にかけて走る鮮血。わざとではない。不可抗力だった。でも、それは事実。現実。私の手の平が男の頬を引っ掻くようにして叩いた。それは彼の逆鱗に触れるに等しい行為で、そりゃ当然だと自分でも思う。でも咄嗟に声を出してはいけないと頭が言うものだから、声が出ない。本当なら「ごめんなさい!」と言えば良かった。でも、言えなかった。
殺気が隣の男から打ち放たれた。熱が体中を駆け巡る。逃げろ、逃げろ、逃げろ――殺される。走って、逃げろ――膝を立てて、足を立てて、ガクンと膝から前に崩れ落ちる。足に力が入らない。それでも這いずるようにして、何とか上体を起こして、痛みに顔を歪ませながら私は走った。どう考えたって逃げられない、それでも私は走った。逃げ切る必要はない。誰か、第三者にこの男を引き留めてもらうだけでいいのだ。そこまで逃げればいいのだ。T字の廊下、突き当たりに体を打つけるようにして方向転換をした。ここは右に曲が……、
「逃がすと思ってんのか、馬鹿がァ……!」
ガツン――
何かが背中を殴打して、私は床に叩き付けられた。
「がはっ――」
「いい度胸してんじゃねぇか」
「うっ…………」
足蹴にされて仰向けに転がされる。両手を大の字に開いたまま、天井を見上げた。視界が霞む。半身を襲っていた痛みが今度は全身に回った。あぁ……痛みが強すぎて何にも考えられない。
どすん、と私の上に馬乗りになった男が新しい葉巻を取り出した。丁寧に回しながら火を付けて、ふぅ~~と煙を吐き出す。その様をぼーーっと見ていた。…………容赦ないな、この人。海軍の癖に、まるで海賊みたいな戦い方だ。口よりも手が先に出るタイプ。見た目からしてそうだとは思っていたけれど……。これはちょっと、酷くない?
うっ……口の中が血の味で満たされている。……不快だ。気持ちが悪い。私は……これからどうなるんだろう。
「さて……と」
一服を終えた男が、背中に差していた大きな十手を抜いた。長い棒の先端が喉にグッと押しつけられる。ただでさえ血が逆流してきていて息が為難いというのに。ヒュ――、ヒュ――呼吸音だけが静かに響いた。
「仮面の下、見せてもらうぞ」
手が伸びてきて、最後の悪あがきと、腕を伸ばそうとした。……でも、腕が上がらなかった。力が入らない。
「…………お前、……能力者か?」
能力者……?
能力者とはなんだ?
「……能力はなんだ?」
…………能力? そんなの知らない。私は、違う。だって、そんなもの記憶にないもの。……だから私は…………違う。能力者じゃない。
「…………ちが、う」
もう思考が動いていなかった。
「へぇ……やっぱり演技してやがったか。嘘つきの言う話は信用ならねェ……悪魔の実の能力者、だろ?」
違う――、違う――、…………違う。私は、悪魔の実なんて、そんなもの知らない。ずっと引っかかり続けていた記憶の箱に男の言葉が降り注ぐ。
「ちが、うっ」
「…………この十手の先には海楼石が仕込んである。能力者は海楼石に触れると能力が封じられ、力が出せなくなる。動けねェんだろ?」
…………違う。今は、ただ、怪我をしているから動けないだけで。十手のせいじゃない。これは、ただ私が弱かっただけだ。
「ほら……」
試しに……と十手の先が喉から外れる。フッ――と軽くなった体が無慈悲に真実を突きつけてきた。あ”ぁ”……知りたくなかった。知りたくなんか、なかった。……確信へと変わってしまった。
部屋で見つけた悪魔の実の図鑑。興味本位で開いてみた中に見覚えのあるものがあった。何度思い出そうとしても自分がそれをどうしたのか思い出せなかった。自分の思い過ごしだったらいいと思っていた。
だけど――
どうやらそれは思い過ごしではなかったらしい。自分の馬鹿さ加減を呪いたくなる。
「やだ…………」
「…………?」
「怖い…………」
「お、おぃ…………?」
:
カタン――
あれ程、しっかりと身につけていたはずだった仮面が、床に落ちて音を立てる。現れた顔を目に留めたスモーカーが目を見開く。彼はゆっくりと、その者の身の上から離れていった。解放された仮面の持ち主は、そのまま、床に寝そべったまま、子供のように泣きじゃくる。
:
「「「ミホ――――クッ!!!!!!」」」
:
海軍本部全体に響き渡る叫び声。それは会議真っ只中のミホークの耳にもしっかりと届いていた。それどころか、その声は傍に居た全員の脳内をグラグラと揺らし、彼等にかつてない感覚を植え付けた。その感覚に唯一慣れていた、かの鷹の目のミホークが刹那に立つ上がる。夜を中心にして放たれた遠慮のない殺気が円を描いて室内を、いや……その周囲、半径数十メートルを取り囲う。ただならぬ殺気に本部内部が慌ただしく動き出すと同時に、鷹の目の姿が消えた。
「待て、鷹の目!」
元帥センゴクの制止の言葉があったときにはもうその場にはいなかった。
:
:
「なまえ……」
彼女の存在は確かに感じられた。だが……。
目にした惨状に腸が煮えくり返る。廊下には両手を大の字に広げたままに気を失っているなまえ姿。鮮血が至る所の壁を伝い、彼女の周りに点々と血だまりが出来ていた。走り寄る。血は既に黒ずみかけている。どうやら、流血しているわけではないらしい。青痣が多数見て取れる。呼吸の音もおかしい。外傷が酷い。……が、確かに息はしている。……落ち着け。ここで取り乱すな。自分に言い聞かせる。なまえは大丈夫だ。今はただ眠っている。
確認を終えて、そのすぐ横、座り込んだまま壁に寄りかかり頭を抱えている男を見る。眼孔を鋭くするよりも早く、男が言った。
「鷹の目、……そいつはなんだ?」
酷く疲れ切った顔の男が再度言う。
「何者だ……?」
仮面の外れたなまえの頬には乾いた涙の線がいくつもあった。
「何をした?」
「こっちが聞きてぇよ。酒に酔ったみてぇに頭と体がクラクラする」
そっとなまえの頬に手を添える。
…………冷たい。
「…………医務室はどこだ」
「あっちだ。……悪いが、俺はしばらく動けそうにない」
そう言うと、男は電伝虫で医務室に連絡を取り、すぐに迎えが来ると言った。

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