第8話 こだわりを捨てられない場合はまず自分から…

夢のような夜だった。

それが昨日の夜の感想。電車に乗って、いつも通り会社に向かう道すがら昨日の夜のことを思い浮かべる。始めはどぎまぎしていたけれど、最後は来てよかったってそう思えていた。

腕時計を見て時間を確認する。時間通りだ。

扉が開いたそこには思い描いていた人が立っている。目が合って、小さく会釈をしながら乗り合わせた。扉が閉まる。降りる階のボタンを押そうと手を伸ばすと、先に手を伸ばした社長がボタンを押した。会釈をする。

……なんていうか。昨日はあんなによく話ができたのに。うまく言葉が出てこない。とにかく、昨日はディナーをごちそうになったんだから一言お礼を言わなくては、そう思って無理矢理に口を開いた。

「き、昨日はありがとうございました!」

自分で思っていたよりも大きな声が出た。

「叫ばなくとも聞こえる」
「あ……っと、すみません」
「だが、その気持ちは有り難く頂いておこう」

なんだか秘密のやりとりをしている気分。こっそり隣を見上げたら、前を向いたままの社長は唇を結んだままなのに笑っているように見えた。社長の優しい一面を垣間見たことがあるせいもしれない。なんとなく、そう見えた。

ピンポン――

エレベーターが着いた。会釈して足を踏み出す。

「気をつけろ」

小さくともやけに耳に響いた一言。思わず「え?」と振り返ったけれど、社長の顔を見る間もなく、「前を見ないと転ぶぞ」と続けられた言葉に慌てて前を向いた。危うく頭をぶつけるところだった。エレベーターから降りて今度こそ顔を見ようと振り返る。お礼を、と口を開きかけたけれど、扉はもう閉まっていて、そこに社長の姿はなかった。少し、残念に思った。

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「終わった――!」

自分の仕事に自信はない。でも、昨日社長から話を聞いて、みんなそうなんだってことを知ったおかげでいつもより前向きになれた。少しずつがんばっていけばいいんだって。

「お疲れさん」
「あ……どうも」

話しかけてきてくれたのは、あの先輩だった。

「俺もちょうど今終わったんだけど、どう? 今から飲みに行かない?」

オフィスに置かれている時計を見て、卓上にあるカレンダーを見る。時間もあるし、今日は金曜日。……って、断る理由なんてないじゃん。何を戸惑ってるんだ私は。

「是非!」
「おっ、いい返事! ……ん、と。じゃあすぐ行ける?」

真っ黒になったパソコンの画面を見ながら彼が言って、もちろんですと頷いた。パタン――、勢いよくノートパソコンを閉じて鞄を手に立ち上がる。

「新しくできた居酒屋があってさ。お洒落で美味しいらしんだよ、そこ」
「へぇ! そうなんですね。楽しみです」

「なまえちゃんはさ。嫌いなものとか、ある?」
「えぇっと――」

一瞬頭をかすめた。昨日、社長もそう言っていたなぁって。

「特に?」
「じゃあなんでもいけそうだね。そこはさ、海鮮料理が美味しいらしくて」

彼に続いて歩いてエレベーターの前に立つ。ボタンを押して待った。

「先輩はお刺身が好きなんですか?」
「あぁ、大好きなんだ。なまえちゃんは?」
「私も好きです!」

先輩はお刺身が好き、覚えておかなくちゃと頭の中で呟く。

エレベーターが来た。「それでおすすめの料理が……」と先輩が言いながら足を踏み出して、その後すぐに先輩の言葉が途切れた。急に黙ってしまったのを不審に思って視線を上げる。

あ、と口が開く。社長が乗っていた。先輩は口を閉じて、軽く会釈をしていた。私もそれに習うようにして会釈をする。社長は微動だにしなかった。先輩は社長とは二人分ほど開けたところに立って、両手でビジネス鞄を持って立っている。私はそんな二人の間に立っていた。

エレベーターの中で流れる独特の沈黙の雰囲気。普段社長と二人きりで乗るときはそんなに気にしたことがなかった。こうして改めて感じてみると、居心地のいいものじゃない。先輩にバレないように(先輩は終始そっぷを向いているからバレるわけはないだろうけど)社長を盗み見た。

社長も気まずさを感じているのかなぁって気になった。

扉が開くと逃げるようにして先輩が降りていく。私も後に続いた。振り返るといつもの表情のままエレベーターから降りていく社長が見えた。前を向いて、先輩の隣に並んだ。

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