見慣れた天井になまえはいつも通り目を擦りながらゆっくりと体を起こす。いつもと変わらない朝だと思ったのも一瞬だった。
「起きたか」
なんてことはないって顔で、なまえの目の前にミホークが立っていた。なまえは両目を見開いた。澄ました顔でにっこりと唇を釣り上げたミホークに殴りかからんばかりの勢いで飛び付いた。
もちろん、ミホークはそれを受け止めた。
「ば、かっ!」
「会ってすぐに言うことがそれか?」
「……それです、それしかない。むしろ当然じゃないですか!?」
ぐずん――なまえの鼻が大きな音を立てる。
ミホークは柔らかく息を吐き出すと、今一度にっこりと笑みを作って、腕の中で鼻をすすり、ヘソを曲げているなまえを強く抱きしめた。なまえはほ――と息を吐き出す。
「また居なくなるのかと思いました」
「…………なぜ?」
「……分からない、です」
「…………」
「……」
「不安にさせた、のか……」
ミホークはそう言うと目を伏せた。なまえは思わず顔を上げた。目を伏せたミホークの真意は分からない。けれども、戸惑っていることはなんとなく感じ取れた。
あのミホークさんが言い淀んでいる……? なまえは息を飲んでミホークの次の言葉を待った。
ミホークは考えていた。
さっきまではあれほどすらすらと言葉が出てきていたのに。なんと言えばいいのか分からない。それに尽きる。考えて考えて考えた。……でも、分からなかった。ただ、なまえが、なまえのことが……。
ミホークは今一度、なまえを抱きしめた。
「何か、言ってくれ……」
フッ――――なまえが笑った。
「今、不安ですか?」
「…………」
「ね。何も言ってもらえないのって不安ですよね」
あぁ、ミホークが息をつくようにそう返した。なまえはまた笑った。今度は息を漏らさないように、唇を緩めるだけ。ついつい漏れてしまいそうな笑い声を押し留めて。
なんて可愛い人なんだろう。なまえはにっこりと笑っていた。
「問題ないと思っていた」
「問題あり、です」
「……そうだな」
「こっちはいつ帰ってくるかなんて知らないですよ」
「一応……」
「いいでしょう。言い訳を聞きますとも!」
ようやくミホークの喉の通りがよくなったのを見て、なまえはおどけながら言う。ミホークの腕の中からすっぽんと顔を出して、にっこりと、今度は声を出して笑っていた。それを見たミホークはつられて苦笑する。
「ビブルカードを置いていった」
「はい、ビブルカードですね!」
これのことですね? なまえは懐から大切にしていたメモを取り出した。そして、ミホークの前に突き出しながら言う。
「はい。よーく、読んで下さい。どこにも、一言も、帰って来るなんて書いていますか?」
「……いや」
「ですよね!」
「…………分から「分かるわけないです! そもそも私これがビブルカードなんて知らないからただのメモだと思ってましたけど!」」
「…………」
ビブルカードを知らないだと? というようにミホークは目を見開いてなまえを見た。
「知、り、ま、せ、ん、よ!」
「……それは、すまな「すまないじゃ済みませんから!」」
お、おぉ――先程までとは打って変わって、よくしゃべるようになったなまえに気押されして、ミホークが体を後ろに仰け反らせる。食い下がるようになまえは体を寄せる。
「し、」
「し?」
「心配したんだから!!!!!」
プツン――――まるで音がしたようだった。そう言い放ったなまえは両目の端からぽろぽろと涙をこぼし始める。ころころと展開が変わっていく様にすっかり流されているミホークはただなまえを抱いて繋ぎ止めておくことしかできなかった。すっかりミホークの眉尻が落ちきってしまっていた。
「ミホークさんなんか……」
「…………」
「ミホークさんなんかっ」
「……すまない」
「許さないから。ぜったい、絶対! 許さないんだからっ」
「あぁ、それでいい」
「…………」
「いい」
「…………うん」
なまえの涙が収束に向かっていく。ミホークの低く優しいささやき声が、彼女の心を落ち着けていった。彼はなまえを何度も何度も抱きしめ直す。頭を撫で、背中を撫で、彼女の気が済むまでずっと――ずっと。二人はその日中、ぽっかりと開いてしまった空白の時間を埋めるように二人の時間を過ごした。
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次の夕方のこと――
「いらっしゃいませ~」
酒場にはいつも通り、なまえの姿があった。店は半分消えたままだったが、天候も良いということもあり、半分屋外、半分屋内での開店、営業となっていた。都合の良いことになかなか面白い趣向じゃァねぇかとお客は喜んでいた。
「なまえちゃん、ビール2つお願いね!」
「はい、マスター」
せっせと働くなまえの姿の近く、カウンターには見慣れた人影が2つ。赤髪のシャンクスと鷹の目のミホークだった。この街の連中は彼らのことを見慣れていたこともあり日常風景のひとつとなっていた。どう見たって仲が良いように見えるのに、彼らは間ひとつ開けて座って敢えて距離を取っている。
嫌なら会わなければいいのに。そんな2人を見たなまえは胸の内でそう思いつつ、やっぱり仲が良いんだろうなと時折2人の方に目を向けながら頬を緩ませていた。
少し離れた2つのグラスには透明な液体が半分ほど。シャンクス、ミホークの順でそれを飲み干して、彼らは口を揃えて言う。
「「マスター」」
「はいはい。2人ともいつものね」
この風景もいつものこと。呆れつつ、変わらない2人の様子に笑みを浮かべたマスターは邪魔にならないように、酒を注いですぐに傍を離れていった。
「お前とこうして酒を飲むのはいつぶりか」
「さぁな、興味ないさ」
ふむ、それもそうか――ミホークが答える。
「なまえはすっかり元気になったな」
「あぁ」
「ここ最近誰かさんのせいでかなり不安定だったんだがな」
「…………俺か」
「そうだよ」
シャンクスが酒をグイッと飲み干す横でミホークが呟くように言う。
「誰かに愛されるということも悪くないな」
ブホッ!
「…………下品な」
赤い髪が大きく揺れて、げほげほと咳き込む音が店の中に響き渡る。店の客は次は何をやらかすのかと視線を送る。おいおい、大丈夫か――慌てたマスターの言葉に返す余裕もないシャンクスがミホークに向けて口を開いた。
「…………お前、正気か?」
「…………」
ミホークが白けた視線を返す。お前の方こそ正気かと言っている風だった。シャンクスは口の周りについた酒を手でふき取りつつ、ミホークの横顔をまじまじと見つめた。……誰だこの男は。本当にあの鷹の目なのか。
「数ヶ月というものがこんなに長いとは」
「…………」
はい、無視。やはりこの男は鷹の目で間違いない。つくづく人の話を聞かない奴だ。シャンクスが虫けらを見るような蔑みと呆れた目でミホークを見つめていたときだった。
「なまえを連れて行くつもりだ」
「…………はぁっ!?」
一体どういう話の流れでそうなった!? 数ヶ月が長いと感じた話からどうしてなまえを連れて行くという話になった!? お前の頭の中で話が飛躍しすぎてこっちはついていけねェんだが! ――言いたいことが多過ぎて喉を詰まらせたシャンクスがカウンターに両手をついた。そのまま勢いで立ち上がって、座っていた椅子を後ろに弾き飛ばす。椅子が転がって、その場に似つかわしくない音が響くとその場にいる誰もの視線を集めることとなった。
当然、なまえの視線も2人の方に向いた。
「お2人ともどうしたんですか?」
なまえは2人に目を向けつつ、カウンターの向こうにいるマスターにも視線を送ったが、彼は頭を抱えているばかりでなまえの視線に応えることはなかった。ますますどうしたのか。なまえは首を捻りながら、すごすごと2人の方に足を進めた。
なまえがミホークの隣に立つ。するとシャンクスがミホークとなまえの2人を交互に見た。ミホークがシャンクスの方に視線を向けたままなまえのことを呼ぶ。
「なまえ」
「はい?」
「俺と共に来ないか」
「………………え?」
ミホークがなまえの方に振り向く。
「それってどういう……」
なまえが困惑した様子で口を開くと、チッ――と舌打ちが離れたところから聞こえた。ミホークのひとつ向こうにいたシャンクスが、倒れた椅子を拾い上げる。なまえはその様子を目で追った。
「一緒に海へ来いだとさ」
シャンクスが言う。
「それは、つまり……」
なまえはミホークの本意を確認するように、ゆっくりと言葉を確かめながら言う。なまえが最後まで言い切る前にミホークが口を開く――
「いつでもよかったわけじゃない。それは俺の本意ではなかった。だから待った。待って、20歳になったお前を迎えにきた」
「っ、」
なまえの両眼がみるみる濡れていく。大粒の涙がこぼれ落ちるよりも先に、ミホークがとどめの一言を言い放つ。
「これから先、一生を共に過ごそう」
それがどんなに嬉しい言葉か、なまえは知っている。何度も何度も読んだお気に入りの小説の中に出てくる一節だった。その一節がとても好きなんだとミホークに話していた。その時のミホークは普段と変わらない素振りで。そんなに真剣に受け止められていないと思っていた。でも、違っていた。ミホークはきちんとなまえの願いを聞き届けてくれた。
そう、これはただの言葉じゃない。これはミホークがなまえの願いを聞き入れたという証である。だから、なまえにとってこの言葉は何よりも嬉しい言葉なのだ。
ミホークは喉を詰まらせるなまえの方を一瞥する。そしてゆっくりと立ち上がった。傍に立て掛けてあった夜を背に負い、十字のネックレスを揺らしながらなまえの方に体を向ける。仕上げに大きな黒い帽子を頭に飾れば支度は完璧だ。いつもの装いになったミホークはなまえに手を指し伸べた。大きな手のひらが上に向いている。なまえはそれを目に留めるやいなや、弾けるように体を動かして前に歩み出た。もちろん、右手は彼の右手の上に重ねられた。
グッ――――なまえの右手を握りしめたミホークがなまえを引き寄せる。なまえはそれに従うように体を寄せた。
「行けるか?」
なまえはカウンターの方に目を向ける。そこにはマスターといつの間にか奥から出てきていたレスティがいた。2人はなまえの方を見ていた。その視線は、それはそれは優しい眼差しで、なまえとミホークの2人を包み込んでいた。なまえが僅かに眉を寄せる。それは2人に対する想いからだった。急なことだから、このまま付いていってしまっても大丈夫だろうか、とか。2人と離れるのは寂しいけれど、彼についていきたいという想いは止められない、とか。そんなことを考えているのだろう。
そんなこと、マスターとレスティには手に取るように分かった。今まで娘のように可愛がってきたのだ。それはきっと、娘が嫁に出るような気持ちに等しいだろう。彼女は心の底から幸せそうだった。ただそれだけで十分だった。2人は互いに顔を見合わせた後、にっこりと笑みを作った。そうして、なまえを見ながらゆっくりと頷いた。
行ってらっしゃい――
なまえもにっこりと微笑みながらゆっくりと頷いた。
行ってきます――
それで十分だった。
別れを済ませたなまえが、ミホークを見上げた。そして強く頷きながら応える。
「今すぐにでも!」
「……行くぞ」
「……はい!」
長いコートを翻し颯爽と出口へ向かう背中をなまえは追った。ミホークの背中が目の前にある。そう思うと、胸が踊った。
カランカラン――
「なまえ。いつでも遊びに来なさい」
「はいっ。レスティ、マスター。お世話になりました!」
なまえはその場で深く腰を折って頭を下げた。後ろの足音が一瞬止まった後、再び動き出すと慌ててその後を追った。そんな2人を見送りながら、レスティとマスターは顔を見合わせて笑いあった。なまえが幸せになりますように――
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その夜、海上に1つの小さな船が浮かんでいた。
「なまえ、後悔はしないか?」
少し不安げな男の最後の問いに
「いいえしません」
はっきりと答えた女がひとり。女は続けてこう答えた。
「いつまでもお側にいます」
そうか――そう答えた男の顔には柔らかな光が灯り、2人は漆黒の闇夜の中、光に包まれながら笑い合ったのだった。
Eagle Eye Ⅰ END.
20140118 End.
20140227 change.
20200102 change.

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