夏を齧る

名前も知らないその人と出会ったのはいつだったか……1ヶ月くらい前だったと思う。

私の仕事はヤガラ専門のお医者さんで、その往診中に出会った。ヤガラの往診に向かった家の隣は小洒落たBARで行ったことはないけれどそこそこ人が入っている。そこから出てきた人が『名前も知らないその人』だった。

「なまえさん、いつもありがとう」
「いいえ。こちらこそ。ヤガラちゃんが元気なのはおばあさんが大切にされているからですよ。ありがとうございます」

さようなら、と常連さんに頭を下げて通りに出たその時、人にぶつかった。大変ベタな展開ではあるけれど、ぶつかった相手が悪かったようで「痛いわ! ねぇ、ダーリン助けて!」「あぁ!? 俺のハニーちゃんになんてことしてくれんだァ!」とまぁ、大変なことになってしまった。

「大変申し訳ありません」と頭を下げたところで話にもならず、責任取って慰謝料を払えと言われる始末。もういっそお金で話がつくなら……と首を縦に振ろうとしたそのとき――

「それでお金をせびったあとはどうするつもりなんじゃ。どうせ足りない足りない言って後から集たかるんじゃろ?」

ヒュッ――と突然現れた知らない人が2人の前に立っている。その人は2人に向かって1本の指を突き立てた。

「1分やる。それでわしの前から消えるなら見逃してやろう」
「なっ……! なんだお前は!」
「ええんか? 1分過ぎたら容赦はせんぞ」

なぁ……? と睨みを効かせながら仁王立ちする姿を隣でまじまじと見る。ひしひしと肌をそばだてる何かに堪らなくなって思わず自身の両肩を抱いた。それは向かいにいた2人もそうだったようで、男の放つ異彩な空気に身を震わせているようだった。「覚えていろよ!」そんな悪役じみた台詞を残してタチの悪いカップルが去っていく。

あぁ……助かった。ほっと肩の力が抜けて腰から落ちていく。手に持っていた往診のカバンがするりと抜け落ちて、音を立てながらレンガ道に横倒しになった。いつもなら大切なカバンが……と慌てるところだけれども、今はそんなことはもうどうでも良くなっていた。

:

不意に振り返った私の救世主。

オレンジ色の髪色に真っ白なキャップを被っていて、紫と橙のカラフルな服を纏っている。瞬く瞳は大変つぶらで可愛らしく睫がとっても長い。あと鼻もすご~く長かった。

「大丈夫じゃったか?」

その人の一言で我に返る。あぁ、御礼を言わないと――急いで立ち上がって姿勢を正す。

「見ず知らずのところをお助けいただきまして、ありがとうございました……!」

深く頭を下げた。

「気にせんでや。ちょうどそこから出てきたところじゃったから」

ひらひらと片手を振った後に示された1本指の先にあったのはお隣のBARで、なるほど……タイミングが良かったということだと捉えた。

「あの……何かお礼を……」
「いやいやいや。そんなつもりで助けたわけじゃないからの。じゃっ」

キュッと帽子の鍔を握りしめて、爽やかな笑顔を浮かべたその人が颯爽と走り去っていく。その先に居たのは……友人だろうか? 何人かの人の輪に合流してその影は消えてしまった。

「……ありがとう、ございました」

もう一度復唱したお礼の言葉は誰に聞かれるわけでもなく消えていく。私の中に灯った何かは消えることなく小さく瞬いていた。

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