06

ギシリギシリという音がした。パタンと扉が閉まる音。ゆっくりと意識が浮上してくる。香りがした。爽やかで安らぐ香り。嫌いじゃない。誰かが部屋にいる。気配を感じた。いつもなら飛び起きるところだが、今日はなぜかそういう気分にならなかった。動きたくない。……いや、動く必要がない、そう感じた。

ふと、ひやりと頬に触れる感覚。それは2、3回触れて離れてを繰り返した。

「ほんとお疲れなんですね」

静かな声が聞こえた。柔らかく細い声からは温度を感じた。とても暖かで優しい。そう思ったらまた強い眠気に襲われた。こうして眠気に襲われたのはいつぶりだろうか。なぜか、酷く落ち着く。泥のように眠った。

目を覚ましたとき、辺りは薄暗く、見覚えのない景色に焦った。自分が台の上に乗っていることはなどはすっかり忘れて飛び起きると声がした。

「ルッチさん、落ち着いて下さい」

宥めるような声。体を起こし、その声を探すように辺りを見回した。だんだん目が慣れてくるとはっきりと見えるようになった景色。あぁ、そうだった。ここはあの女の店だった。

……そして。

「大丈夫ですか?」

その人、なまえの口調から、今自分が酷い顔をしていたことが読み取れた。そりゃそうだろう。一瞬、誘拐でもされたのかと、そう気を張ったのだから。

「今、電気を明るくしますね」

薄暗かった部屋に徐々に光が灯り出す。それでも控えめにしてあるオレンジの光は目に優しく、心を静めてくれた。一度目を瞑り、深く息を吐き出した後、瞼を上げる。そうすると、ほかほかと湯気の上がるタオルを差し出したなまえがにっこりと笑いながらこちらを見つめていた。

台の上で片膝を立ていた足を下ろし、それを受け取る。ほんの少し冷えていた顔にまた血が戻ってくるのを感じた。

「とてもよく眠っていましたね」
「……どれくらい眠っていた?」
「んーそうですね。3時間は寝てましたよ」

それには自分でも驚いた。ここ最近、全然眠れなかったせいもあったが、それよりも自宅ではなく、なじみ深くもない店の中で熟睡したことに対して驚いた。

「シャワーを浴びられますか?」
「あぁ……」
「はい、じゃあどうぞ」

タオルなど一式を受け取り、前回と同じように脱衣所へ向かう。ふと思った。

「時間は大丈夫なのか」
「え、あぁ、はい。大丈夫ですよ。今日はルッチさんが最後ですので、ゆっくりしていって下さい」

本当に? と念を押したかったが、これ以上言うのもおかしな話だろう。黙って頷いて返し、シャワーの準備をする。どうやら本当によく眠れたらしい。体が羽根のように軽く感じた。溜まっていた疲れがすっかり消えてしまっていた。

なまえを見ると感じる。それは不確かなことで、経験など腐るほどしてきた自分にとってそれはあまりに純粋な感情で。その感じたもののはけ口をどうしたらいいのか、分からなかった。これは愛情なのか、それともただの安らぎなのか。……いや、愛などという曖昧なもの、信じてはいない。あんな曖昧で不安定なもの、ドラマの中、作られた物語にだけ存在するものだろう。

シャワーを浴びながらこんこんと考えたのは、ひたすらなまえのことだった。それがひたむきな感情だということにも気づかず、ただただどうやればこの感情を消せるのか、それだけを考え続けた。

いつもよりも長めに入ったシャワーを終え、服を着て脱衣所から出る。

「お疲れさまでした。今日はこれで終わりです」
「あぁ」
「見送りますね」

先ほどまでとは違い、はきはきとしゃべるなまえの様子から、先ほどは気を使ってくれていたのか、とようやくそのことに気づいた。なまえは少し変わっている。

店の出口まで見送ったなまえは深く頭を下げた。そうして「是非また来て下さいね」と言った。それを横目に見つつ、軽く手を挙げて応えた。車に乗るために振り返ったとき、そこにはもうなまえは立っていなかった。何かを失ったような、そんな感覚がした。

車を出そうとキーを回したときだった。大きく手を振りながらこちらに向かって走ってくる影。付けていたライトをー段階落としてその影を見つめた。

はぁ、はぁと息をきらしていたのはなまえだった。なまえは運転席の窓側に立ち、コンコンと窓をノックする。窓を開けると、忘れ物です、と見覚えのないネクタイを差し出してきた。

「……俺のものか?」
「……え、あれ?」

俺の言葉を聞いて目まぐるしく頭を回転させだしたなまえが、眉間に皺を寄せながら視線を逸らす。そうして数十秒。

「あっ!!! そうでした!! ルッチさんは今日ネクタイをしていなかったんですよね。すみません。じゃあこれはクザンさんのだ」

心の声までもが口からだだ漏れしているなまえに目を向けると呼び止めてしまってすみませんと彼女は頭を下げて謝っていた。

「いや、いい。それは俺の前に居た奴か?」
「ん、と。はいそうです」

すごく面倒な人で、となまえは苦笑いを浮かべながらもとても楽しそうに言った。見たことのない顔だった。

「……カリファはまだいるか?」
「ん、はい。まだ中に……」
「なまえ、」
「はい?」
「乗れ」
「……はい?」

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