「お世話になりました」
深々と頭を下げたなまえの後ろにはがやがやとごった返した港が広がっている。それなりに大きな港だ。
結局、なまえを説得出来なかった俺たちは、当初の予定の通り、なまえを島に送り届けることになっていた。だが、ここはシャボンディ諸島ではない。そのひとつ手前の島がいいと言うなまえの意見に沿ってここでの下船となった。
「……気は変わらないのか」
「そんなに寂しいの?」
こてんと不思議そうに首を傾げるなまえ。
チッ――舌打ちを返したのは、そんなのはこっちが聞きたいと言いたい気持ちを堪えたからだ。俺にも人を恋しく思う気持ちがまだ残っていたんだと再認識されて、そのせいで頭を過ぎったコラさんの記憶。酷い気分だった。
「ロー?」
「…………」
なまえの手を握る。ゆっくりと引き寄せて、抱き締めた。これでお別れだ。後にも先にも、この女はもう俺に会うつもりはないだろう。彼女の頭の中を埋めつくしているのは、ただ一人の男だけ。それくらい最初の方に気づいていた。分かっていた。でも、もしかしたら……もしかしたらその立場と置き換えることができるかもしれない。そんな淡い期待を抱いていた。
だがそれも……「本当にありがとう」そう言って、なまえが運賃が入った袋を差し出して来たときに、嫌でも気付かされた。
俺は彼女の眼中に無い。
「少し付き合え」
「えっ?」
腕を引く。なまえは抵抗することなく着いてきた。広い通りを抜け、目に入った路地裏に足を踏み入れようとしたとき、グンッ――腕を引かれた。
「ロー。皆が待ってるから行かないとダメだよ」
「……なんでお前がそれを言う。キャプテンは俺だ」
「……圧政反対」
ぽつりと呟いたなまえの指に指を絡めていく。あぁ――離れたくない。離したくない。
「でももうそろそろ……っ、」
そのまま抱き上げて路地裏に転がり込んだ。人々が行き交う往来のすぐ隣。そういうところではよくこういうことが行われている。
「心配するな……お前をその気にさせるくらいの猶予はある」
「っ、ロー!」
なまえを壁に追いやり、両手を握りしめて顔の横に置いた。
「嫌なら抵抗したらいい」
「…………ローはいっつも意地悪だね」
「それはお前だろ。俺をこんなにしておいて、捨てていくのか」
「なっ!? 人聞きが悪いなぁ、もう! ちゃんとはじめに説明しておいたでしょう。運んでもらうのと――」
キスをした。
もう何度目か分からない。
触れるだけで身体中が熱く狂うようなキスだ。
「セックス」
「んっ……ふ……。ローは、……つ、それに同意した……んんんっ。…………そうでしょ……んんっ…………」
「あぁ……確かに同意した」
なまえの両手を解放する。はぁ……はぁ……肩で息を繰り返す彼女を抱き締める。「ようやく結べるところまで伸びたんだ」そう言っていた彼女の顔を思い浮かべながら、無理矢理に結ばれた髪の先っぽを掴まえてくるりくるりと弄んだ。まわる姿はまるで俺のようだ。なまえにいいように転がされて……それでも、俺はこの女のことが恋しい。
「…………私だって。ローの船は居心地が良かったから、少しくらいは考えたんだよ」
「…………は?」
「でもね。会わないといけない人がいるからさ」
「…………じゃあ会ったら戻ってくるのか」
「…………それはない、と思う」
「…………」
ごめんね――そう言ったなまえは、悲しげに目を細めて笑っている。
「ローと、ローたちと過ごした毎日は大切にする。絶対に忘れない。ローのおかげで、自分の能力をちゃんと理解出来たし、それに…………何より、楽しかった」
「…………いやだ」
「……ありがとう。ロー」
「いやだ」
――離れたくない。
グッと拳を握りしめる。俯きかけた顔を上げた先にあるなまえの表情は、すでに別れを告げていた。現実を突きつけられても尚、俺はまだ飲み込めていない。
「…………くそっ」
どんなに熱い眼差しを送っても、どんなに行かないでくれと縋り付いても。この女は少しも靡かない。…………誰だよ。こんないい女を捨てた男は本当に阿呆だな。こいつは……今でもお前のことしか見ていないんだぞ。
「…………ほら。早く行かないと。ここは本部が近い海域だから長居はできないよ?」
「…………嫌になったらいつでも来い」
「ふふ……うん。分かった」
そっと胸板をなまえの手の平が押す。ゆっくりと離れていく距離。なまえの微笑みを網膜に焼き付ける。…………俺はまたひとり大切な人を失う。
「ロー。ありがとう」
「…………」
「そんな顔、しないで。…………あぁ、そうだ。電伝虫! ペンギンがね、船の連絡先と交換してくれたんだよ。だから、連絡は取れるよ」
あいつ……ちゃっかりしてやがんな。
「いつでもって訳にはいかないと思うけどさ。ローが辛いときに話を聞くから」
「…………話だけか」
「う~ん。ごめん。先のことは分からない……し。でも、お世話になった分はちゃんとお返しする!」
俺はこれから先のお前のすべてが欲しい――そんなことを言ったところで、この女は「ごめんね」と言う。
あぁ――もう、くそっ。どうしちまったんだ俺は…………!
「また連絡を――?」
誰かが近付いてくる気配を感じた。互いに視線を交わして相手の出方を待つ。殺意は感じなかった。ゆっくりと、俺となまえの間に入った影は、足を止めて、俺の方に向かい合い立つ。一瞬、なまえの知り合いかと思いもしたが、なまえは本当に不思議そうにその男の全身を見ていたから違うだろう。
黒いシルクハットを被った金髪の男――顔はよく見えない。
「……誰だお前」
「……名乗る程のものじゃない」
「俺たちに何の用だ」
「そちらのお嬢さんが困っているように見えたんでな」
「……あ。いえ、その。私たち、知り合いなので……」
「知り合い……? 恋人じゃないのか。じゃあこの男が一方的に言い寄っているってことだろう?」
「え……? っと。恋人じゃないかもしれないけど、そういう仲というか……。……とにかく! 大丈夫です!」
「本当に?」
ほんの少しだけ、なまえの方に顔を向けた男となまえが視線を交わす。その瞬間に見えたなまえの顔――真ん丸に目を見開いた顔が印象的だった。
「あ……貴方は!」
「…………久しぶりだな。なまえ。話は後だ。それより、この男はどうする?」
「本当に大丈夫だから。彼は海賊のトラファルガー・ローで、私の恩人なの」
そう言って笑うなまえとあの男がどういう関係なのか、結局、最後まで聞くことはできず。俺がなまえという女と会ったのはそれが最後だった。

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