第18話 止められない想い

漆黒のコートが靡き、風が起こる。すると、まるでなまえの気持ちを代弁するかのように、扉がゆっくりと漆黒を迎え入れ、閉じていく。扉が完全に閉じたとき、空間の中には人が2人。男の腕の中には小さな女が抱かれていた。暗い部屋のなか、二人は角に立っていた。

甘い香りがなまえの鼻を掠めると同時に背中を掬われる。反射的に飛び出した両腕が目の前の胸板を突っぱねると、その両手はすぐに退けられた。乱暴にじゃない。あくまで柔らかに、でも強かに。なまえの両腕を払いのけた片方の手は、背中をぐるりと囲って抱き締め続けるもう片方の手と同じように、背中に回る。なまえがそれを許し、受け入れた。

どくどくと波打つ高鳴りに、なまえは吐息を吐き出した。どこかで息を抜かなければどうにかなってしまいそうだった。彼の吐息が耳を掠め、ゆく場所を失ったなまえの腕が居場所を求めるように、彼の背中に回った。

彼の腕に力が入れば、なまえは抵抗することもなく彼に体を預ける。なまえの頬が彼に触れる。間には薄いシャツが一枚あったが、たった一枚のシャツが何の意味を持つのか。伝わってくる彼の体温がじわりじわりと上がっていくのをなまえは感じていた。それに呼応するように鼓動が速度をましていく。

どうにか、落ち着かなければ。

なまえはゆっくりと両目を閉じた。でも……それは愚作だった。閉じれば余計に彼を感じた。彼の息づかいが耳を刺激し、彼の香りが鼻を通り、脳を犯す。ゾクゾクゾク――と感じるこの気持ちは何だ。腹の底の底で疼くこの感覚は何だ。一体、どうしたら……、いい……? たまらずシャツを握る拳に力を込めた。

息継ぎの合間に漏れる吐息はもう……普通じゃなかった。吐き出す度に彼の香りがなまえをおかしくしていく。

「っ、――――」

先に耐えきれなくなったのは、なまえではなく、彼の方だった。くらくらとする異様な感覚に、頭を垂れつつあったなまえ。その首もとに彼の唇が触れた。その瞬間、なまえはたまらず声を漏らした。なまえ自身も知らない、今まで発したことのない、秘められた声。一瞬止まった彼と、自分の声を自覚して真っ赤に顔を染めたなまえ。聞かなかったことにしてください――となまえが抗議する間もなく、彼はなまえの前にしゃがみ込んで、その唇をふさいでしまった。

情熱的な口づけは何度も何度も角度を変えて続いた。角度が変わる度になまえは小さな息継ぎを繰り返し、なくなりそうになる酸素と、脳髄を犯す感覚と戦った。そのうち、なまえの両目からはぽろぽろと涙がこぼれだした。その涙が、ひとつ彼の手の甲に落ちたとき、ようやく彼が動きを止める。

酸素が欲しいと荒い呼吸をあげる一般人であるなまえに反して、彼は水中で何十分も呼吸を止めることができる剣士であるというのに、彼の呼吸は乱れていた。なまえが彼をそうさせていた。

そして、なまえの体がついてきていないことにようやく気がついた彼――ミホークは、未だ荒い呼吸を続けるなまえの頬に手を添えた。一体何をするのか、なまえが視線を添えられた手の方に向けたとき、ミホークの唇が再び唇に合わせられた。まだ息が――なまえの言葉は口づけの中に消えていく。――と同時に、先ほどとは違う様子になまえの両目が見開いた。

先ほどまでの激しい口づけが嘘のようで、今度はゆっくりと、優しく、心地のよいものだった。ミホークが言う。

「あまり吸いすぎるな……」

そして返事を待つことなくまた口づけが繰り返される。この人は私を口づけで殺す気なのだろうか、と霞む意識の中で踏みとどまりながらなまえは思った。

「ん……」

どのぐらい長い間続いていたのか、なまえの頭ではもう時間の感覚がわからなくなって、それからしばらくしてのこと。なまえの呼吸が落ち着いたところで、ようやくミホークの手ならぬ唇がストップした。

唇が離れていく最中、なまえは上を見上げた。伏せられたミホークの瞼が見えて、蓄えられた髭が見えた。いつの間に帽子を取ったのだろうか。始めからだったのだろうか、それとも途中で取ったのだろうか。そんなことを考えながら離れていくミホークの姿をぼんやりと見続けた。目が慣れたらしい。暗闇の中に浮かぶミホークの姿がぼんやりと浮かんで見えた。

なまえの頭ひとつ分ほど離れたところで、彼の瞼がゆっくりと瞬いて、開いていく。ゆっくりとした時間の流れを感じながら、なまえは息を止めてその様を見た。真っ暗闇にぼんやりと浮かび上がる金色がなまえを見つめていた。

「悪い。加減ができなかった」

謝られているというのに、どうしてこんなにも嬉しいのだろうか。鼓膜を伝って入ってきたミホークの声がなまえを揺らした。なんて答えたらいいのか分からない。返す言葉を探して必死で頭を回転させるなまえとは裏腹にミホークは欲望の赴くままといった様子だった。

反応のないなまえを横目にしつつ、首もとに顔を埋める。そして小さな口づけをいくつも落としだした。

「……っ、あ、あのっ」

何か口に出せば一応は止まる行為も、その先の言葉が続かないせいですぐに再開される。なんだか酷くむずむずする感覚。数回繰り返せばその感覚はすぐに我慢できないものに変わっていった。

「ちょ、っと待って下さいミホークさんっ。そんなにされたら私…………」

ちらりとこちらを見た瞳。うっ、と息を止めたなまえにミホークが言う。

「…………どうなる?」
「どう…………って」

なまえの目が泳ぐ。それを見たミホークの口角が僅かに上がったがなまえはそれどころじゃなかった。

「やけに体が熱くないか?」
「…………それはミホークさんがっ」

「ん?」
「…………ミホークさんがそんなことばっかりするからで」

「…………口づけか?」
「…………」

「やめて欲しいか?」

その一言を聞いたなまえは恥ずかしさで背けていた顔を急に上げた。わなわなと震える片手をミホークの肩に添えて、身を乗り上げながら、なまえは言った。

「ミホークさんの意地悪ッ!!!!」

なまえは分かっていたのか。ミホークはたまらず笑ってしまった。普段見せるニヒルな笑みではなく、自然な笑顔で。それにはなまえも面食らっていたが「ついな」と言った確信犯を目の前にしたら、もう止めることはできなかった。

「バカッ!!! バカ、バカ、バカ、バカぁ~~っ!!!」

また笑ったミホークが「なまえにバカ呼ばわりされるほど、頭は悪くないつもりだが?」と返すと、唇を結んで頬を膨らませたなまえがふいっと顔を背けてしまった。ミホークもこれには眉を八の時にした。

「悪かった」

ミホークの謝罪になまえの耳がぴくりと反応する。その反応すら愛おしそうに目を細めながら、ミホークがまた口を開いた。

「なまえが目の前にいると思うと止まらなかった」

ミホークの手の平がなまえの頬に触れて、なまえの顔がゆっくりと振り向いていく。未だに口を結んでいるなまえに小さく笑ったミホークは、言った。

「…………好きだ」

なまえの両目がたっぷりと時間をかけて開いていった。その様子を変わらず愛おしそうに見つめたミホークがゆっくりと顔を近づけていく。なまえがミホークの唇を受け入れるように両目を閉じるとミホークもゆっくりと閉じていく。そして、今一度、二人は唇を重ねた

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