第19話 苦しくて、ただ苦しくて

その日の夜のこと、なまえは夜中に目を覚ました……といっても寝ぼけていたせいか、半分夢見心地のことだった。

ぼんやりと目を開いたなまえの目の前にはミホークの背中がある。衣を纏っていないその背中には傷ひとつなかった。綺麗な肌だなぁと、男とは思えない白く美しい素肌になまえの手が伸びた。その手の平が触れた瞬間、空気が変わった。

寝ぼけたなまえがそれに気づくことはなく。ミホークの背筋をなぞりながら肌のきめ細かさや体温を感じて、彼の存在がここにあることを実感していた。

ほんの数日前に出会ったばかりの人に対してこんな想いを抱くことになるなんて。なまえは未だに消化しきれていない想いを胸いっぱいに溢れさせながら、ただ彼のことを考えていた。

ふと――なまえの口から彼の名前が漏れた。なまえにとってそれは、呼吸をするように無意識のことだった。すると――シーツが擦れ、肌の擦れた音が。つい漏れた声にミホークが反応したのだった。寝ぼけ眼にも慌てたなまえが「ごめんなさい」と言う。

それを見たミホークはゆっくりとなまえの方に向き直って不思議そうに眉を寄せていた。

「あの……、その、起こしてしまったみたいで」

彼はその言葉に返事を返すこともなく、なまえの頬に手を添えた。

「……眠るといい」

ミホークはそう言って、なまえの頬を優しく撫でる。それを素直に受け入れたなまえがゆっくりと目を閉じていく。ミホークは今一度なまえの頬を撫で、体を寄せて彼女を抱きしめた。彼の体温の中に納まったなまえはすっかり微睡みを取り戻していて、吸い込まれるように眠りの中に入っていった。

「……明日は」

彼が何かを言っていた。それは覚えていた。でも、それがなんだったのか、彼がなんて言っていたのか、なまえはそれを覚えていなかった。

……なんて言ったの?

夢の中で出会った彼は、その問いに答えることはなかった。彼はいつもの服を着てそこに立っていた。彼は振り返ると歩きだした。なまえは慌てて後を追いかけた。真っ暗な闇に向かって彼は歩き続けた。なまえが何を問いかけても振り返ることはなく、歩き続けた。なまえがどんなに走ってもその背中には追いつけない。彼の背中がどんどん小さくなっていく。彼はそのまま先の見えない暗闇の中に消えて行ってしまった。

:
:

なまえが目を覚ました。目の前には見慣れた天井。体を起こして辺りを見回す。そこはなまえの家の寝室。だけど――隣にポカンと開いた空間があった。昨日はあったはずの背中がそこにない。

「ミホークさんがいない……」

もうダイニングにいるんだろうか。前回もそうだったからそうかもしれない。そう思いながらも、なまえは強い不安を感じていた。何か……おかしいと。ベットから降りて服を着る。カーテンを開けると朝日が射し込んだ。時計の針は9時を指している。いつもより遅い目覚めだった。

なまえはカーディガンを羽織った。胸に抱く不安を消したくてキッチンに向かう。きっとそこに彼はいるはずだと。

――――?

でもそこに彼は姿はなかった。代わりにテーブルの上にあったのは1枚の便箋だった。

 

ー ログが溜まった。
今日、島を出る。
世話になったな。

ミホーク ー

 

「えっ……?」

それはあまりに唐突で。便箋を手に取ったなまえは何度も何度も、そこにある現実を読み返した。誤解のしようがない明瞭過ぎる内容は、逆になまえに飲み込まれることなく。ただただ、なんで? どうして? 訳が分からないという感情を膨らませるだけだった。

「……ミホークさん」

なまえが彼の名を呼ぶ。当然、返事はない。空っぽになった部屋に一人、なまえは便箋を強く握りしめた。数日前までは一人が当たり前だったのに、ただ彼がいなくなったというだけで、どうしてこんなにも…………。

「もしかしたらまだ間に合うかもしれない……!」

それは気休めに過ぎなかった。でも、気休めでもよかった。とにかくじっとしてられなくて。気休めでもいいから、なまえは何かにすがり、動くしかなかった。なまえは寝室に戻り、着替えを済ませる。そして、一通の便箋を握りしめて家を飛び出した。

走り出したなまえの顔は焦燥に包まれていた。

:
:

「マスター!」

カランカラン――カランカラン――、大声と共に、店のドアベルが慌ただしく鳴った。慌ててバーカウンターから顔を覗かせたマスターが入ってきた人を目に留めて眉を寄せる。

「なまえ?」

どうした、とマスターが言う前に、店の奥の厨房に入っていたレスティが「そんなに慌ててどうしたの?」と表に出てきて言った。

「ミホークさん、見なかった!?」
「鷹の目……?」

ますます眉を寄せたマスターとレスティが顔を見合わせる。互いに首を振り合って、意見をまとめると、「いいや、見てないけど?」とマスターが言った。

よくよく見てみると、なまえは息を切らしていて、肩で呼吸をしていた。ますます何事なんだ? と二人は眉を寄せ、それぞれ手に持っていたグラスや皿をその場に置いて、なまえの元に歩み寄った。

「何々? どうしたっていうの?」
「ミホークさんが! はぁ、はぁ……今朝起きたら置き手紙があって、今日島を出るって!」

落ち着いて――レスティがなまえの背中をさすって落ち着くように声をかける。

「そう言えば……鷹の目が来てからちょうど今日で2週間か」

マスターは両手を腰に置くと、「う~ん、まぁあいつならそうするだろうな」と続けた。レスティもその意見に頷いて返した。それはなまえも理解していることだった。息を整えたなまえが背筋を伸ばす。心配そうに隣に立つレスティが続けて聞いた。

「どうして探しているの?」
「…………それは」

「書き置きにはなんて書いてあったんだ?」

マスターの質問に、握りしめていた一枚の便箋を差し出す。それを受け取って目を通し出すマスターとレスティをなまえは見つめた。

この感情をどう説明したらいいのだろう――なまえはぐっと唇を噛みしめた。この胸に抱いている感情は、普通のもので、誰かに話してもいいものなのだろうか。もしもそれを二人に話したらどうなるのだろう。何か……言われるんじゃないだろうか。

それは私にとって、良くない内容で――

「特に、変わったところはないと思うけど……」

目を通し終えたレスティが首を捻ると、それと相反して、マスターが眉を寄せる。

「鷹の目らしい? っといったららしい文面ではあるが……」
「あるが……?」

「そもそも、あいつがこんな手紙を置いていく奴とは思えない」
「……確かに」

ハッ――と二人の視線が合った。

そこでようやく二人はなまえに目を向けた。二人の目に入ったなまえは、思い詰めたように俯いて、何か考え込んでいるようだった。

「なまえ、貴方もしかして……」

「……確かに、ミホークさんは淡泊な人だって分かってた。島のログが2週間で溜まってしまったら移動する。それは普通だと思う。……でもさ。……でも、」

でもね、ミホークさん。私は――ほんの数時間、一緒にいたあのときに感じた愛情は、淡泊じゃなかったと思うんです。むしろとても濃厚だったと思うぐらいで。それって私の勘違いだったのかなって、今になってそう思えてきて。

ミホークさん……ミホークさんにとって私は……なんだったんでしょうか。

「なまえ?」

言葉を途中で濁らせたまま黙り込んでしまったなまえを心配したレスティがそっとなまえの肩に手を添える。大丈夫?――と声をかけようとしたそのとき、視界に入った足下に小さなシミができていることに気づいて、言葉を止めた。

レスティはなまえの正面に立って腰を降ろした。自分がなまえの同じ年頃の頃に思っていたことを思い起こしながら、一部を自分と重ねながら、レスティはなまえの思いに寄り添うように、彼女の頬を両手で優しく覆う。

そのまま、ゆっくりと上に誘導する。俯いていたなまえの顔が正面を向いたとき、なまえの両目からは涙がこぼれた。幾重にも引かれた線の上をまたひとつ、涙が落ちていく。

レスティは何も言わなかった。ただ、なまえをまっすぐに見つめて、なまえの言葉を待った。なまえは、鼻をすする。滲んではっきりとは見えなかったけれど、真剣な眼差しで見つめるレスティの両目を見返して、喉を詰まらせながら、えずきながら、ゆっくりと言葉を紡いでいった。

「わ、たしね。…………ミホーク、さんが、すき」

瞬間――レスティの眉が八の時に落ちた。

「ミホークさんが、大好き」

あぁ――レスティの口から溜まらず声がもれる。可愛い可愛い妹分がこんなにも苦しい思いを内に溜めているともしらず、自分はまるで攻めるような質問をしてしまった。

レスティは涙でぐちゃぐちゃになったなまえを引き寄せ、抱きしめた。

「ごめん、気づかなくて」
「……ううん。レスティは悪くないでしょ」

「いいえ。気づかないなんて、姉として失格でしょ」
「ううん。いいの。私が隠してたんだから」

なまえはそう言うと、レスティから体を離す。そして、今できる精一杯の笑顔で笑った。

「心配してくれてありがとう」

その笑顔はあまりに痛々しく、レスティは余計に胸をえぐられるような想いだった。

なまえ――いつかはそうなればいいよね、くらいに私たちは思っていた。2人ともまだ距離はあるだろうって。今はまだ彼が物珍しいから、好奇心に駆られて彼と話しているものだと思っていた。でも、違ってた。――なまえの生い立ちを思えば、これは運命だったのかもしれない。貴方はきっと、惹かれずにはいられなかったのね――――

送信中です

×

※コメントは最大500文字、5回まで送信できます

送信中です送信しました!