スモーカーさんとたしぎを見送ったすぐ後、たしぎにもらった肌触りのいいショールを掛け直す。……さて、と。二人と話していたら小腹が空いてきた。会場に戻って――――コツン、コツン、コツン。革靴の音がはっきりと聞こえた。聞き慣れた足音。――ようやく、だ。
「なまえ」
真っ直ぐに正面を見る。暗闇に浮かぶシルエット。普段は背にあるはずの『夜』がない。いつもはある、あの帽子も。どうやら彼もお粧ししているらしい。ゆっくりと焦れったく歩み寄ってくる姿を目で追った。スポットライトの光の筋、その前を彼が通る。一瞬だけ浮かんだ姿に息を飲んだ。そのまま彼の歩みは止まらない。
「……どうした?」
目前に立った彼をまじまじと見た。
「あ……う、……ううん」
「…………?」
やばい。格好いい。ただそこに立っているだけなのに、まるで彫刻のようだ。これが素材の力というものなの…………? 美しい美術品がそこにあった。
彼は普段は絶対に着ない服を着ていた。服自体はなんてことはない、よくある形のスーツだ。ジャケットは黒で、シャツは彼らしく紫色。うっすらと入る縦縞の糸が光に反射して光っている。
思わず目が細くなる。……眩しい。顔は言うまでもなく。上から下まで舐めるように視線を送った。革靴も黒色。縁取りは金色でこだわりを感じる。……ブーツ以外の靴を履いているところ見たのはじめて……踝出してるの最高……。
感極まって口元を手で覆う。崩れそうになるところ、頑張って踏ん張った。呼吸が荒くなったのは彼の色気に当てられただけで、決して私が変態だからという訳ではない。…………はず。
「…………」
真面な言葉が返ってこないことに腹を立てることもなく、彼はいつもの通り、無言で触れる距離まで近付いてくる。肩に掛かるショールに手をかけて、無意識に握り締めていた私の手からやんわりと奪い取った。
「え……あ……」
これ取られると寒いんだけど……喉まで出かかった言葉が出る間もなく、ミホークが動く。ジャケットの袖から腕を抜いて、それをそのまま私の肩に。ふわっと一瞬にしてミホークの香りに包まれた。きゅんとなるのは絶対に不可避。自然と背筋が伸びた。見上げたミホークが満足そうに頷いて嬉しそうに笑む。
「似合っているな……とても」
「っ、」
あぁ、もう何だって良いです、神様。私は今この瞬間、この場に立つことが出来て幸せです。ありがとうございます……!
「上から下まで、まるで誂えたように、俺と同じだな」
手を取られ、耳元で囁かれる甘い声に俯く。頬が染まった。そのまま、「ああ゛~~!!!!」と叫びたい衝動に駆られたが我慢した。…………死ぬ。供給が多すぎて、…………死ぬ。頭が追いつかない。何とか息をして呼吸を整える。再び見上げた視線の先にあったのは、彼のネクタイだった。見た瞬間に視界が滲む。
ドレスを選ぶときに考えたのは貴方のことだったから、貴方も私のことを考えて選んでくれたんだとしたら、嬉しいなぁって、そう思っていた。ミホークの首に飾られている深緑が「お前のことを想って選んだ」と、聞こえもしない言葉を吐いている。その色は私の髪の色。彼もまた、私の色に染まっていた。貴方に初めて心を鷲掴みにされてから、私の心は未だに掴まれたまま。……離れるなんてこと、彼は許さない。それがどうしようもなく嬉しくって堪らない。
「…………綺麗だ」
「ミホークも。すっごく格好いい…………」
身を屈めて寄せてくる姿に心臓が囃し立てる。このままじゃこっちの身が持たない。思わず腕を伸ばして、彼の胸を押した。……ちょっと、ちょっとだけ待って欲しい。切実に。
グッと止まる。…………が、一瞬だけだった。ミホークは私の手頸を掴んで「いいのか……? ますます堕としたくなるだけだぞ」遠慮なく篭絡を開始した。
「い……いや、そんなつもりじゃなくって」
もう顔を見ることも出来ない。
「…………熱いな」
「ぅ……うぅ…………」
「…………ふ、」
「…………いじわる」
柔らかな微笑が影と共に振ってくる。「こっちを見てくれ」という言葉にふいっと首を振る。のろのろと後ずさりをしながら、熱烈なアプローチをどうにかこうにか交わし続けた。全身が馬鹿みたいに熱い。
「あの……ごめん、っ、その……恥ずかしいからさ、ちょっと待って」
「…………嫌だ」
「っ、」
「なまえ、顔を見せてくれ。もっとよく見たい」
渋々顔を上げる。待っていたとばかりにミホークの手の平が頬を優しく滑る。
「俺のためと自惚れてもいいか」
ひゅっ――――と息を飲んだのは、ミホークのこちらを見る顔が本当に嬉しそうだったからだ。その瞳は蕩けるように緩んでいて、私を……私だけをじっと見ていた。
「…………うん」
ミホークの呼吸が深く重い。腹の底から深く吸い込む音が私の耳に響く。これは――――
「…………いいよ。我慢しなくて」
「…………っ、」
ミホークが精一杯の優しさで私に触れる。壊してしまわないように、崩してしまわないように。でも、彼の口付けはとても熱い。その口から告げられなくとも深い愛情を感じる。全身が私を求めて口付ける度に、愛を囁かれているようだった。
「っ、ふ…………」
「あっ、ん…………」
「…………」
「ねぇ、ミホーク。もしかしてちょっと酔ってる?」
酸素が欲しくて彼の頬を手の平で押し止める。噛みつこうとする唇をなんとか引き剥がした。
「…………そんなつもりはないが」
「ん、そう? …………なんかいつもより激し……んん……、いから」
「なまえ」
「…………ん?」
急に力が抜けたミホークのことを見上げる。目を伏せた後、彼は口を閉じた。そして、静かに言う。
「誕生日おめでとう」
――――誕生日って、こんな……こんなに幸せなものだったんだ。今まで誰にお祝いしてもらっても、拭えなかった灰色の記憶が視界と共に揺らいだ。透明な水彩絵の具を被せるように、ミホークの金色が優しくなぞって彩っていく。記憶が、思い出が、きらきらと光りながら、私が生まれてきたことが心から嬉しいのだと、彼はそう言ってくれていた。
「……ありがとう」
目尻から涙が落ちていく。
「っ、…………」
ぽろぽろと。
「…………泣かせるつもりはなかったんだが」
ミホークは困ったように笑って、私の涙を優しく拭ってくれた。その指を掴む。
「これはね、嬉しくって泣いているから。……だから、いいでしょ?」
私は、今幸せだ。だから、それでいいでしょう?
ミホークがそっと口付ける。それ以上の言葉はいらない。そう言われているようで、私も素直に応じた。何度も角度を変えて行われる深い口付けは幸せそのもの。最高の誕生日プレゼントだった。
長い長い口付けの後は、微睡みの後に目を開けたような感覚だった。ゆるりと笑うミホークと手を繋ぐ。指を絡めて体を寄せて「大好き」って言う。ミホークの手が腰に回って、ぐっと体が引かれた。
「……待って。まだ話があるから」
続きを求める彼をやんわりと制した。む、と口先を尖らせる姿に小さく笑う。
「はい。私からもプレゼント」
肌身離さずに持っていた一枚の紙。彼のためにと切り取ったそれを差し出す。
「……できたのか」
「うん、今日取ってきたよ」
それは私のビブルカードだった。
「もう一つは?」
「ちゃんとここに入っているよ」
そう言って、胸にぶら下がっている十字架のネックレスを揺らす。私のためにと、細く美しく作られた十字架の柄の中にくるっと丸めて納めている。満足げに頷いたミホークが今し方受け取ったビブルカード――四つ折りにされたそれを広げようと指を掛けた。
「……待って。紙は広げずにいてくれたら嬉しいなぁ……なんて?」
「……なぜだ?」
「いいから、すぐしまって、はい、しまって!」
――フン。納得はしていないらしいが、今は言うことを聞いてくれるらしい。ミホークも私と同じように十字架の柄の中に納めた。
「もしものときに、これを見て」
「もしも……」
「……ないことを願ってるけど。きっと役に立つと思うから」
「…………」
「……いい?」
「…………」
「……分かった?」
「…………分かった」
ジトリとした目で見上げ続けていたら、ミホークが渋々頷いた。彼は約束を守る人だからこれで一安心だ。
ジロリとこちらを見る瞳に「ありがとう」と言う。
「じゃあ部屋に戻る?」
「主役がいいのか?」
そう言いながらも、ミホークは嬉しそうだ。さっきは無理にでも連れて行こうとしていた癖に。ハハハッ――笑った後に、頷く。
センゴクさんには好きにしていいって言われていたから、途中で抜けたところで何も言われないだろう。
こういうときのミホークは機敏だ。そうと決まれば……さっさと先行して歩き出した後ろ姿に堪らず笑う。
ミホーク、待ってよ――追いかけようと足を一歩踏み出した、時だった。

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