第24話 世界なんかどうでもいい

体が前に行かない。踏み出した右足で蹴っても。左腕に痛みがあって後ろを向いた。大きな何かがそこにはあった。ゾッとして顔を上げる。…………が、見知った人だったので、少しだけ気が和らいだ。

「くま……、さん?」

彼は王下七武海に属する男、バーソロミュー・くまだ。詳しいことは知らない。話をしたこともない。けれど、ミホークと同じ、王下七武海に属している人だったから――、そう思って気を抜いたのだ。

「伝言がある」
「?」

未だに腕は掴まれたまま。不審に思いながらも、首を傾げる。私が立ち止まって、話を聞く体勢に入ったからか、彼は手を離してくれた。私の興味は、先ほど彼が言ったことに向かう。

「……誰からですか?」

一体、誰から? 私に? ミホークに? 何を? 色々なことが頭の中を駆け巡った。たったそれだけじゃ何も分からない。くまさんは、言葉を区切る。私は固唾を飲んで続きを待った。

「世界政府がお前を捕まえにくる」
「…………はぃ?」
「…………」
「え……あの、ちょ……、一体何を言って?」

先ほどまでミホークとの幸せを享受していたせいだろうか。なかなか頭がそっちに切り替わらない。頭を抱えて「待って」と片手を上げる。少し、考える時間が欲しかった。くまさんは、挙げた私の片手を握りながら言った。「自分の能力は知っているのだろう?」と。

瞠目する私に彼は続ける。

「ならば、理解しているはずだ」

理解……してる……って。何、――何なのよ。まるで呪いのように追いかけてくるそれが、――憎い。グッと拳を握る。腕に思い切り力を入れた。例えぴくりともしなくとも、私は抗いたかった。

「…………知らない。知りたくなんかない! 私は……!」
「…………」
「私はただミホークと一緒に居たいだけ! 世界なんかどうでもいい。なんにもしてないでしょ! 私が何をしたっていうの。私が……あんた達に何が出来るっていうの……!」

こんな小娘に何が出来るの。貴方の腕ですら払えないのに。人と違うから。チカラがあるから。危険を排除したいから。そんなのは、あんたらの都合だ。そんなのは、ただの我が儘じゃんか!

「なんで、……なんで放っておいてくれないのっ!!!!」

腹一杯に溜めた声で叫んだ。

 

小娘の声は高いからか、よく響く。なまえの声は辺り一帯に響き、船上の喧噪けんそうは静まり返った。しっとりとしたBGMだけが静かに奏で、離れたところを歩いていたミホークの背中が振り返る。

バタバタバタ――遠くからたくさんの足音。それが何を意味するのか、なまえは分からない。彼女は考えることを放棄していた。とてもじゃない、考える余裕がなかった。出来るのは、こちらに走ってくる彼の行方を目で追うことだけ。

「ミホーク……」

分からない……けど、何かがこれから起こることをなまえは感じていた。決していいことではない。

「巻き込むか、受け入れるか。……選ぶといい」

くまの言う言葉の節々から感じる、己の運命の先を、なまえは何となく理解していた。何となく、抗うことが無駄であることも。それでも、言わずにはいられなかった。

……違う。そうじゃない。巻き込むんじゃない。

「共に、乗り越えて行くんだよっ!」
「…………永遠に終わることはないだろう。それでもいいのか」

静かになったくまがなまえを無言で見下ろす。なまえは奥歯を噛み締めた。ここまでほんの数秒のことだった。…………十分だった。ほんの数秒あれば、嫌でも理解する。ここで抗ったところで、いずれまた何処かで同じことは起こるのだ。これが永遠に続くんだと思ったら、彼を振り回したくないと一番に思ったのである。

「ごめんね、…………ミホーク」

なまえは呆然と立ち尽くした。肩を落として、ミホークのことを見つめる。くまが本を片手に持ち、右手を振り上げた。このまま殺されてしまうのだろうか。最悪の結末が頭を過ったが、不思議と恐怖は襲ってこない。不穏なことを言う癖に、くまからは殺意というものが感じられなかった。

「俺が出来るのはここまでだ。幸運を祈っている」

はっきりと消えたくまの言葉は、まるで門出を祝うようだった。

旅行するなら、どこがいい?――――

「なまえ! そいつから離れろッ!!!!」

ミホークが手を伸ばしている。無意識に手を伸ばした。指先が僅かに触れた。――でも、同時に振り降ろされた大きな手がなまえの頭上に影を作る。

間に合わない。それはなまえもミホークも、理解していた。それでも、二人は最後まで精一杯手を伸ばしていた。なまえを襲った手の平は、キュポンッ――、やけに可愛らしい音で彼女を攫っていった。

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鷹が泣いていた。その顔に涙の筋はなくとも、彼は確かに泣いていた。その顔は悲しみで歪んでいる。彫刻のような真っ白な肌。浮き彫りに見える金色の瞳からじわじわと光が消えていく。彼が何をしても、どうしても。見つけることはできない。無力感に苛まれ、彼は膝をつく。

悲しみに尽きるという言葉はない。
悲しみに終わりはない。

どんなに屈強な者にも、悲しみは平等に、幾度も訪れる。

彼にそんな姿は似合わない。どうか、もう……忘れて欲しい。苦しむ姿は見たくない。悲しみに暮れるその顔を私の手の平で包み込みたい。大丈夫だよ、心配しないで。そう言って、慰めてあげたい。もう悲しまないで、泣かないでって。

でも、私にはそれができなかった。

私に出来たのは、謝ることだけ。

「ごめんね」

彼は声を殺している。震える拳を握り絞めたまま、一筋の色を落として、私のことを射貫くように見ていた。まるで金色が滲んでいるようだった。

行くな、と――

「ごめん、ミホーク」

それ以外に言葉が浮かんでこなかった。だって、「愛している」なんて言ってしまったら、それが本当の最後になってしまう気がして怖かったから。

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