「お~なまえちゃんじゃなーい」
「お~青雉大将じゃないですかぁ~」
なんともやる気のなさそうな声に、歩く速度を緩めることもなく。軽く流し見をして、こちらも張り合うように”どうでもいい”感を出して答えた。一応これでも呼び出しをくらって急いでいるのだから仕方がない。まぁ、急いでいなくともいつもこんな感じだけど……、それはそれで今は置いておこう。
「ちょっと、つれなくない?」
私にとっての早足もこの男にとっては普通の速度らしい。いつもよりも少し、ほんの少しだけきびきびと歩くその人に一瞬横顔を向けてまたすぐに前を向いた。
「ご用件は?」
「今夜ど「すみません、今夜は上司とサービス残業をすることになっておりまして」……う」
よろしければご一緒にどうですか? そう言ってにっこりと笑いながら足を止める。あー……と声を出しながら視線をさまよわせ首の後ろをぼりぼりと掻くその人は言葉を詰まらせていた。その様子を見て満足げにもう一度笑って見せる。
「……では私はこれで」
くるりと体を右側に向ける。そこには見慣れた扉が一枚。いつものようにドアノブに手をかけた。
「ねぇ、たまにはいいんじゃないのー?」
先ほどまでの一連の話などなかったかのように、後ろに立つその人はこちらを伺うようにして声を出す。チッと打ちそうになった舌打ちを押しとどめ、視線だけを後ろに向ける。そうしたら、スッと影が上に被さり、真上からトンッと小さな音がした。首を竦めながら恐る恐る視線を上へと向ける。ねぇ、どうなの? とこちらを見下げてくるその顔に目が細くなり、言い返そうと口を開いた時だった。
「そこで何をやっている」
今日一番の俊敏な動きだったと思う。左斜め後ろ。声の方に向かって勢いよく顔を向けた。眉間に皺を寄せ、お前等俺の執務室の前で何をやってくれているんだと威嚇するようなその鋭い視線にひやりと汗が噴き出した。
「ちゅ、じょ……あの、これは……」
先ほどの青雉大将への勇ましい牽制が嘘だったかのようなその声は、か弱くて歯切れ悪く、とても自信のなさげな声だった。おいおいと向けられる上からの視線に対応することなんて頭の隅にすら浮かばず、ただただ目の前の上司に恐れ戦くことしかできなかった。こつん、と中将の右足が前に出てようやく体が動いた。大将のテリトリーから抜け出すようにして一歩、また一歩と数歩歩いて体を後ろに引く。
「言い訳はいい。それで……? 大将はどういったご用で?」
私の隣を通り過ぎて、未だ執務室の扉に右腕を上げ、体重を預けていた青雉大将の前へ中将が立った。身長差こそあるもののその威厳はどちらもすさまじいものだった。
「いやいや~俺が用があったのはそっちの子だったんだけどねぇ」
「なまえにか、用は済んだのか?」
「ううん? いやいや、まだいい返事が聞けなくてね。なまえちゃん、返事聞かせてくれる?」
なんてことだ。私の心情はもう荒れ狂っていた。本当なら両手で頭を抱えて、「うわぁああああ!!!」なんて奇怪な叫び声を上げてしまいたいぐらいだ。なんてことだ。どうなんだと、話の内容を知らないはずの中将すら、大将と一緒に見つめてくるのだ。そんな風に2人してにらまれちゃ、もう早々に諦めるしか……ない。
はぁ~とため息を吐き出す。この場を早く納めてしまわなければそれこそ残業になってしまう。中将の時間をこれ以上お取りするわけにはいかないし。
「……分かりました」
「よし、じゃあ終わったら俺の部屋ね」
まるで私がそう答えるのを分かっていたかのように、にやりと笑った大将が上機嫌でそう言った。時間取って悪かったと中将の横を通り過ぎ、私の横を通り過ぎるときには肩にポンッと手を置いていた。
「楽しみにしてるから」
「……言っておきますが、こんなの後にも先にも一回だけですからね」
「何言ってるの、そんなこと言いつつも少し前にも飲んだことあったでしょ?」
素直じゃないんだから、なんて訳の分からないことを言いながら大将は去っていった。その後ろ姿をぼうっと見つめる。……そんなこと、あったっけ?と頭の中は記憶を呼び覚ますことでいっぱいいっぱいになっていた。
カチャン――
扉の音で我に返り、何事もなかったかのように部屋に入っていく中将の後を慌てて追いかけた。
「書類はあるんだろうな」
「はい!!」
真っ直ぐに机に向かって歩いていくその様子を入り口付近に立ち、目で追う。中将は真っ白な正義のコートを脱ぎ、コート掛けにかけた後、首元のネクタイを少しだけ緩めた。椅子に深く腰掛けてふぅと息を吐き出しゆっくりと目を閉じる。数秒後、腕のシャツを少しだけ託し上げながら目線はこちらに向けられ、早くしろと訴えるその視線に慌てて足を踏み出した。
「取りかかるぞ」
「はい」
両手で抱えていた書類一式を上下反転させて中将の方へ差し出した。受け取り目を通し出すともう完全に仕事モードだった。それを横目に見つつ、できるだけ音を立てないようにしてコートを脱ぎ、中将の隣のコート掛けにかけた。今更ながら、こうしてみるとコートの長さが全然違うよなぁ。同じ正義のコートなのになぜだか背負っている重さも違うような気がした。

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