目の前に立つ大男が深い息を吐き出した。
ため息かと思ったが、そうではない。
まるで息を整えるように、彼は、呼吸を繰り返していた。
そして言った。
「もう一度、言ってみろ」
「……ここを去ります」
今一度、彼の双眸を見つめたまま、静かに答えた。
なぜ?――表情には分かりやすく表れているのに、すぐに聞こうとはしない……いや、聞けないのは、私たちがとても曖昧な関係だからだろう。
「……これを」
そう言って、辞表――と書かれた封筒を卓上に置いた。何も言わずに封筒を見つめている彼に重ねて言う。
「サカズキ大将。今まで、大変お世話になりました」
深く、深く頭を下げた。そして、くるりと踵を返す。
「行っていいとは言っていない」
「……失礼致しました。何もおっしゃられなかったものでしたので、去れという意味かと」
振り返ると、執務机の後ろから、大将が歩いて出てきた。真っ赤なスーツにはいつも通り、ピンクの薔薇が添えられている。今日の薔薇も私が準備したものだ。明日からはどうするのか……なんて現実逃避をしていたら、すぐ目の前まで来ていた。
「悠長に考え事か……?」
「あ……いえ。少しぼーっとしておりました。失礼致しました」
ビシッと姿勢を正す。
この男が目前に居ると、威圧感が凄い。慣れていない者ならそれだけでちびってしまいそうになる。私もかつてはそうだった。偉大な男を前にして、足を震わせ、視線を逸らし、口を噤んだ。
だが、今は違う。
言いたいことがあるのならば、はっきりと言えばいい。
怯むことなく、見返した。
「理由を話してもらおうかの」
「……必要でしょうか?」
「当然じゃろうて」
「……婚約者からそのように、」
ふん――と鼻先で笑う音が静かな部屋に響く。
「おどれは、そんなことで辞めるのか?」
「えぇ、はい。……腐ってもあの人は私の婚約者ですので」
間違ったことは言っていない。
内心はどうであれ、婚約者としての体裁はきちんと整えておかなければならない。
スッ――、大将が腰を折った。
そして、見上げる私の頬に右手を添えた。
「婚約者。婚約者。婚約者。そればかりじゃのぅ。アイツが居なくなれば、問題ないんじゃろうかァ?」
嗄れ声が、耳元で囁く。
キュ――と目を閉じたのは、平静を保つためだ。頬の手の平は優しく動き、横髪を耳へとかけた。息を吞むような音がして、それが悪手と気付き、急いで目を開く。目前に迫る大将の唇がそこで止まった。揺れる瞳を捉えたのか、彼の双眸がゆっくりと細まった。
「わしが奪いに行く」
一段と強い一言だった。それを聞いた数秒後、全身が高揚したのはなぜか。私は知っている。渇望――その二文字が浮かんだ。
でも……私は顔を逸らした。
今の私は独り身ではない。
婚約者が出来た。
だから、……もうサカズキ大将の隣にはいられない。
逃げ出すように踵を返し、今度こそ部屋を出ようと、ドアノブに手を伸ばした。
「わしがこのまま逃がすと、本気でそう思っておるんかァ?」
「……えぇ。今の貴方は、大将ですから。前よりは、世間体を気になさるかと」
「…………ごちゃごちゃと、屁理屈ばかり並べおって」
ノブを回した、……が、
ガチャガチャ――開かない。
「あれ? なん……、まさか、…………鍵?」
自分が置かれている状況にようやく気付いた。
額に汗が浮かぶ。
「ようやく、表層が剝がれたのォ……」
大将が、くつくつと楽しそうに笑っている。
「……近づかないで下さい」
「…………」
……はぁ。この人はほんっとうに、人の話を聞かない。その点は、婚約者と全く同じだ。あれ程、互いを毛嫌いしている癖に、そっくりなのだ。
構うことなく傍に来た大将に対して私が出来ることはない。何をどうしたって、この男に勝てるわけがないと知っている。だから、無駄な抵抗をするのはやめた。
「殊勝なことで結構じゃァ」
大将が手袋の先を咥えて素肌を晒す。それはたいてい、如何わしいことをするときだ。
左の頬に素肌触れる。普段手袋をしているせいか、大将の肌は意外と柔らかい。そのまま髪を手で梳いて、弄んでいる。
「いつになったら、触れられるか……、わしは待っていたというのに。おどれは悪い女よのぉ……」
っ――――
私は、如何わしいことをしたいと、大将に迫られる度に避けてきた。
「あの野郎とはもうしたのか……?」
唇に、大将の親指が触れる。
「…………」
沈黙は肯定の意。海軍の常識だ。饒舌になっていたはずの大将が口を閉ざした。
サァァァァ――血の気が引いていく。
「……どうして嘘をつく?」
――――え?
「おどれが、まだ何にも染まっていないのは見れば分かるが……?」
嘘でしょう。大将クラスってキスしたかどうかも分かるの? 戸惑いを隠せずに狼狽していたら、「あぁ、ほら、やはりな……」と。そこでようやく、謀られたのだと分かった。
フッ――と、大将が笑った。
「っ、」
噛みつくような勢いで睨み付けた。
「卑怯者!」声は出なくとも、言いたいことは伝わっただろう。
でも、彼はそんなこと物ともせず、添えていた手を顎に這わせた。思わず震えた体。大将の指が止まった。
「……本当にわしだけか?」
「……?」
「渇望しているのは、本当に……」
その双眸は熱く、そして切なげに、貫くように私を見ている。もういっそのこと、全部ここで吐露してしまいたい。貴方に寄りかかってしまいたい……。
私は噓つきだ。……いや、大噓つきだ。
本当はお慕いしている。
心の底から、貴方のことを渇望している。
時折見る夢のなかで抱き合うほど、貴方に夢中なのだ。
でも、……世の中には色々ある。どうしようもないことだってある。何をどうしたって、紡げない糸だってある。貴方だったらそれくらい分かっているでしょうに。ここまで連れ添った私がこんな風に貴方を拒否するのだ。分かるだろう。事情があるんだと。そして、引いてくれてもいいんじゃないか。悩みに悩んだ私の覚悟を少しは酌んで欲しい。
そう思っているくせに……なんで、どうして、ここまで私のことを求めるの――とため息を吐いているくせに……。こんなにも気持ちが揺らいでしまうとは。何か月もかかって決めた覚悟は音を立てて崩れていく。たった一度、貴方に見つめられただけで。
気付いたら、私は涙を流していた。
「……なまえ」
歪んだ視界で捉えた大将は、静かに私を見つめていた。
「わしが奪いにいく」
だから――
サカズキさんは、この日、初めて私に口付けた。
いたく優しいその口付けは、私を捕え、決して離そうとはしなかった。
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20230616 End.
Thanks rendezvous
Afterword
後日、パンクハザードでの一件があった後、婚約者と別れます。
婚約者が誰なのかは察してもらう感じで!笑。
全然余裕がなくって、漫画読めていないのですが、サカズキさんに新事実発覚? らしいですね! サカズキファンが増えてくれると嬉しいなぁ。
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