なんとか掃除を済ませて、次の予約5分前には落ち着いて休憩を取ることができた。マッサージってする側は結構体力を使うからこまめに休息を取らないと持たないんだよね。煎れ立ての紅茶で体を温めて深く息を吐き出す。こうしているときが一番幸せ。
「なまえ~、ルッチが来たわ!」
カリファさんの声で我に返った。
「あ、は、はいっ!! すぐ行きます!!」
慌てて玄関の方へ向かうとバタンと音がした。ガラス張りの店内の向こう、そこには見覚えのある車が一台止まっていた。丁度、その車の扉が閉まったところだった。ゆっくりとした足取りで一直線に向かってくる真っ黒いスーツの男の人。間違いない、ルッチさんだった。
「こんにちは、ルッチさん。お待ちしておりました」
体の前で軽く手を交差させて軽く頭を下げる。そうすると、あぁ、と小さな返事を返したルッチさんが目の前で足を止めた。
「ねぇルッチ、聞いてもいいかしら?」
「……なんだカリファ」
「一体どういう心境の変化でまたここへ?」
「……俺はお前のそういう詮索するところが大嫌いだ」
ピシリと体が固まる。えっと……、隣では明らかに怒りを滲み出させているカリファさんとそんなことに一切関心を示していないように見えるルッチさん。待って、まさかここで喧嘩勃発とか? 勘弁して下さい。
えっと、あの、そのうと歯切れ悪く声を出しながら二人の間に割って入る。
「あの、時間が限られておりますから、ね?」
ふっ、と二人の意識が緩む。
「大丈夫よ、ルッチ。私もあなたのそういう真っ直ぐに正直に人にそう言うところが大っ嫌いだ、か、ら」
「ちょ、カリファさん!」
「あぁ、ごめんね、なまえ。もういいわ。この最低男を連れて行ってくれる?」
もう、口が過ぎますと苦笑いを浮かべて目の前に立つルッチさんに目を向けて、どうぞ、と左手を進む方向へ差し出して先だって案内をする。前と同じで部屋までは無言で、入ってからもしばらくは無言だった。でも……
「なまえ、と言ったか」
「はい」
かっちりと着込んだ黒いスーツから腕が抜かれていく様子を見ながら返事を返す。
「今日は上半身中心で頼む」
「はい、かしこまりました」
もらいますよ、と言って上着を受け取りハンガ―に掛けていく。ワイシャツも受け取って一緒にハンガーにかけた。
「あれ? ネクタイはしていないんですね」
「あぁ、今はクールビズ期間中だからな」
「そうなんですか」
あれ? 思ったよりもしゃべる人なのかな? 前回とは違い、ぽんぽんと返ってくる言葉に若干戸惑いつつ、まぁ悪いことではないし、と切り替える。施術台の上に横になって貰っていつもの台車を近くに寄せた。
「オイルの希望はありますか?」
「……よく分からん」
「ははっ、ですよね。男の人は大抵そう言われます」
「他にも客が?」
「そりゃそうですよ。じゃなきゃ私ここから追い出されちゃいますからね」
「…………そうか、」
パタリと収束して止んでしまった会話。首をひねりながらもマッサージ中は静かにしたがるお客さんも多かったので、ルッチさんもそのタイプなのだろうなぁと静かにすることにした。少しトーンを抑えた声で、パッションフラワーにしますね、と言った。
返事はなかったけれど、いつものようにオイルを手の平に載せて軽くなじませてから背中に塗っていく。慣れてきたら先のクザンさんのように直接落とすんだけど(ほんとはダメだけど、これ結構大変な作業だから)、ルッチさんはまだ2回目だから。
オイルを塗り終わって、失礼しますと一言。施術台をゆっくりと降ろしていく。背中を見て分かることは引き締まった体だということと、背中にいくつかの傷があること。もちろん以前も気づいていたけれど、踏みいった話になるだろうからさすがに聞けなかった。どうしてこんな傷があるのか、とても気になる。でも、ルッチさんにも聞かれたくないことはあるだろうし……
「……どうした、始めないのか」
「あ、はい! すみません!!」
悶々と考えているうちにすっかり手が止まってしまっていたみたい。慌てて背中に手を伸ばす。取り合えず背中全体を触って分かることはとにかくお疲れだということだった。
「……ルッチさん、かなり無理されていますね」
「どうしてそう思う」
「あちこち筋肉が張っています。一体何をしたらこんな風に……それに……」
「……それに?」
「この傷は……?」
オイルが滲みてしまうんじゃないかと思うぐらい深く、まだ赤みを帯びている傷。そこに触れていいものか考えているうちに思わず聞いてしまった。
「……別にたいしたものじゃない」
「オイル滲みませんか?」
「……少しな」
「えっ!?」
だ、ダメじゃないですか!! 思わず声を上げてしまう。その数十秒後、扉がノックされて「なまえ、大丈夫?」とカリファさんの声が聞こえた。慌てて大丈夫ですと返す。
「すぐにオイルを拭き取りま、ッ!?」
施術台から降りようとしたときだった。クルリと器用に体を回したルッチさんが仰向けになって私の両腕を捕まえた。
「いい、いいから続けてくれ」
始めてルッチさんの瞳をしっかりと見た。下からこちらを見上げる切れ長な瞳は猫のように瞳孔が開く。
「あ、のッ」
気まずくて視線を逸らす。視線を泳がせていると私の腕を掴んでいた彼の手から力が抜け、するりと腕が落ちていった。ルッチさんは何かを言うわけでもなく、また体を回転させてうつ伏せに寝ころんだ。
本当にいいのだろうか、大丈夫なのだろうか。恐る恐る手を伸ばす。
「心配せずとも大丈夫だ。続けてくれ」
「……はい」
傷が悪化して血が滲み出るのではないかとはらはらしていたけれど、結局そういうトラブルもなく、無事に施術を終えることができた。体を起こして台から降りる。ルッチさんの顔の方に回り、終わりましたよと声をかけようとした。けれど、目に映ったのはすやすやととても気持ちよさそうに寝息を立てているルッチさんで。その寝顔はとても幸せそうで。思わず見とれてしまった。
よくよく見てると目の下には深い隈ができていた。何も考えずになんとなくパッションフラワーのオイルを使ったけど、どうやらそれがよかったみたい。あれは安眠効果があるから。……それにしても。
「……可愛い寝顔」
煩わしそうに見える前髪をソッと分けてあげる。ぴくりと眉は動くけれど、熟睡しているみたいで起きる気配はまったくなかった。手の甲を優しく頬につけて体温を確認する。体温も普通だし、ただお疲れだっただけみたい。戸棚にしまっていたバスタオルを広げて肌が見えているところに被せる。男の人は暑がりな人が多いから、暑くて起きちゃうかもしれないけれど、でも風邪引かせるわけにはいかないしね。
できればしばらくこのまま置いて置いてあげたいんだけど、どうだろうか。この後の部屋のスケジュールを確認する。うん、ここはもう使わないみたいだから大丈夫ね。あとは私の予約だけど。受付に行って確認しようか。できるだけ音を立てないように静かな足取りで受付へ向かった。

※コメントは最大500文字、5回まで送信できます