案の定、ミホークさんの姿を見失った私は甲板の上で右往左往していた。書庫ってどこ!? 迷うことなく部屋を飛び出していったミホークさんは場所を知っているのだと思う。……いや、なんで貴方がそんなことまで知っているんですかね。と、思いながら眠りこけている船員の方々を揺らし起こしてなんとか場所を特定した。
鍵は開いていると言っていたから……、ガチャリ――ドアに手をかけて引くだけで扉は開いた。
キィ――
蝶番が嫌な音を立てた。
「……うわ。本当に、真っ暗」
暗闇の中に顔を突っ込むのは気が引ける。手に持つランタンを顔の前に掲げながら、見える範囲を見渡した。狭い部屋だ。すぐ隣に階段があったからか、天井が段になっている。無理矢理に作ったようなスペースで、この船における書庫の位置づけが窺い知れた。情報は大切なものなのにね。ベンさんの困り顔を思い浮かべながら小さく笑った。
「遅かったな」
奥から声がした。ミホークさんの声だ。でも、暗すぎてどこにいるのか全然分からない。
「よくこんな暗いところを歩けますね……」
「気をつけろ。下に積まれた本がある。下手をしたら雪崩になるぞ」
「っ、」
そんなことを言われたら迂闊に動けなくなるではないか。くすりと笑う気配を感じながら、暗闇を睨みつける。恐らく向こうからは見えているだろうから、意味はあると思いたい。
「すぐ右に……あぁそうだ。そっちに机がある。そこにいろ」
「嫌ですよ。私も探します」
「……ふむ。いい心がけだな。では、そちらの棚から回っていくように。俺はこっちから見ていく」
「了解です」
「ゆっくりな」と続いた忠告に頷いて、そろりそろり足を進める。部屋に入る光は多い方が良いかと思って、入ってきた扉は開け放したままにしていた。そのせいか月明かりが差し込んで、その空間に漂っている埃が舞い上がっているのが目に入る。思わず口を手で押さえて、ミホークさんの方に目を向けた。先ほどよりは目が慣れてきたらしく、ぼんやりとだがいるところが分かる。彼は普段と変わらずそこに立っているようで、よくもまぁこんな埃の中を平然と歩けるものだ……と感心する。……いやいやいや。そもそもこれは私のことなんだがら、私が頑張らないといけないのに。ミホークさんに頼ってばかりではいられない。……よし。ものすごく嫌だけど、仕方がない……。腹を括った。
けほけほと咳き込みながら、ランタンを片手に棚に納められている背表紙を目で追っていく。幸いなことに天井までの空間が狭く、棚は高さがなかった。おかげで上から下まで一人で確認することができそうだ。
それにしても、順番が……なにこの順番。ちゃんと並べているのだろうか? きっちりと棚の中に納まってこそいるけれど、その並びに規則性はまったく感じることができなかった。これは長丁場になりそう……。いくら部屋は狭いとはいえど、棚には隙間なく本が詰まっていて、そこに加えてこの視界の悪さ。最悪の条件だ――そう苦々しく思いながらも少しずつ着実に目を走らせていった。根気なら負けない。
:
「……料理本、薬草、海の物語、空の島、悪魔の実……ん? あ、悪魔の実!」
自分が何を探しているのか分からなくなってき始めた頃合いでようやく悪魔の実という単語を見つけることができた。どうやらとても古い本らしい。背表紙が薄汚れていて主題の全体が見えない。
「これは……」
いつの間に……! 私の声を聞きつけたミホークさんがすぐ傍に来ていた。
「確かに、悪魔の実とあるな。消えているところは……巻数か? ……それならば近くに同じ主題のものが、」
「……あ、ありました!」
巻数ということは、他にも同じ本があるかもしれない。二人して近くを探した。シリーズものの可能性を察して見回したのは正解だった。そのすぐ前に積まれていた本の中にも二冊、同じタイトルの本を見つけることができた。
「……三巻か」
「見てみましょう?」
とても分厚い本だった。海軍で見た図解本よりもさらに分厚い。三巻ともミホークさんに運んでもらって、机の上に並べた。埃を払いのけると、表紙に文字が浮かび上がってくる。
一巻 動物系
二巻 超人系
三巻 自然系
あぁ、なるほど。系統で分けているってことだ。
「なまえの場合は体に現れていないところからみるに、二巻の超人系だろう」
「そうですね。じゃあ……」
二巻の表紙を捲った。
保存状態は悪くはなかった。酷い虫食いはなさそうだ。ただ、目次というものがなくて、ただ順番に記録をしてまとめたという感じの本であった。
「これはまた骨が折れる……」
ここからさらに一頁ずつ擦っていって、目ぼしいところを探す作業をしなければならない。
「見る感じでは、古いものから順番にあるように見える」
「えぇ、そうですね。後ろを見ると……私も知っている実があります」
「クラクラの実は聞いたことがない。新種か……そうでなければ、恐らく相当古いものだろう」
「……確かに。新種ということもありますけど。でも、図解に載っていたくらいですから、そこまで古くはないと思いますよ?」
「……あぁ、そうだったな。では、図解の作成年月よりも前を見るといい」
「…………すみません。それが、覚えていないんです」
「……では、前から見ていくしかないな」
くぅ……私の馬鹿! それくらい確認しておきなさいよ。って今更後悔しても遅いし……。仕方がない、一頁ずつ、見ていこう。
どうやら見開きで一種分をまとめているようで、左ページには簡単な図解が、右ページには説明文が載っていた。手書きの絵だがそれだけでも大変有難い。字は読めそうだが、少し癖があった。手早く図解の絵の方を見ていくと良さそう……よし、やるぞ。
:
今、何時くらいだろうか。首の痛みを感じてふと、顔を上げる。ここへ来てから何時間が経過したのか分からない。それくらい私とミホークさんは書庫に籠っていた。時折、外の空気を吸いに出て体を解して一休みする。そしてまた部屋に戻って確認作業を進める。「甲板で見てはだめですか」と聞いたら誰に見られているか分からないと却下された。……確かにその通りです。危機感がなくって失礼いたしました。
なんとか真ん中どころぐらいまで頁を捲った頃合いで、それまでは書庫の棚を見て回っていたミホークさんが作業をやめて私の横に並んだ。きっとすべての棚の確認が終わったのだろう。ふぅ――吐き出された長息に顔を上げた。「少し休んで来て下さい」そう言うと「いやいい」と断られた。
「なまえ、先に言っておくがあまり期待はするな」
「え、なんでですか?」
「悪魔の実のことについては分かっていないことが多い。まず、図解として残っているだけでも珍しい。たとえ載っていたとしても、本に記されていることはほんの一部だと聞く。詳細が書かれていることはまずない。この本は本当に貴重な代物で、これほどの情報が集めれているのが珍しい」
「そうなんですね……じゃあ、期待薄ってことですね」
「……あぁ」
「……それでもやれるだけのことは、」
やりたいんです――あ、
捲った先に現れた果物。これは見たことがある。はっきりと覚えている。色はついていないけれど、頭の中には色が鮮明に蘇っていた。そうだ、私が食べた悪魔の実は、これだ。
「……っ、あ、ありました!」
本当にあったのか? ――ミホークさんの意識が揺らいだのが分かった。顔を上げて、その顔を見つめながら、深く頷く。
「ありました。これです。私が食べた実はこれです」
手書きの絵の横には小さな走り書きで、クラクラの実――と書かれていた。その右側には、走り書きでいくつもの文章が書きこまれていた。文字はひどくかすれている。
「読めますか……?」
ミホークさんがランタンを寄せて指で文字をなぞっていった。何名かが記している。追加追加で書き足されていったのだろう。癖字ばかり……読み難いけれど読めなくはない。
「クラクラの実、この実は……」
一語一語をゆっくりと飲み込みながらミホークさんが丁寧に読み上げていった。ときどき言葉を止めながらも、最後まで丁寧に、私に伝わるように。
クラクラの実。
超人系に分類される悪魔の実のひとつ。能力は麻酔。詳細は不明だが、臭い、振動、声、視線など人の五感を刺激して麻痺させる能力が特徴である。
実際に食べたものより聞いた話によれば、感覚を麻痺させることができるため相手の痛覚、視覚、触感、平衡感覚などを奪うことができるそうだ。それは自分自身にも有効なため、力の弱いものは自分の感覚を自分で麻痺させてしまい、何かしらを失ってしまうこともある。
「……と、書いてある」
読み上げを聞いている最中に感じたのは、強い焦燥だった。絶対に私のせいだ――と思うことがいくつも脳裏に浮かんだのである。それらは私が引き起こした……事故だ。
実を食べてすぐのときから現在に至るまで一体どれだけのことをやってしまったのか。正直なところどこからどこまでその影響があったのかが分からない。
近い時期で思い出せることと言えば……親父の船に乗ったときのエースの様子。今振り返ってみるとあれはどう考えても悪魔の実の力によるもの……なんてこと。全然自覚がなかった。他にも……少し前までは全く飲めなかった酒が特訓したとはいえ酒豪レベルで飲めるようになったこと。自分でも首を傾げるくらいだったっていうのに……だよね。あれも普通じゃなかったんだよね。
他にもたくさん、……ある。それらの中でも一番……、頭に引っ掛かったこと。どんなに考えを揉み消そうととしても消えない。逃げることは許されない事実に目を向けなければならないのに、……あぁ、嫌だ。それがもし本当だったとしたら、私は――
黙り込んでしまった私の隣には、ミホークさんが立っている。何かを問いかけるわけでもなく、沈黙のままそこに立っていた。その視線は例の本に向かっていた。まるで事実を再確認するようにミホークさんはまた始めから文字を目で追っていた。
……向き合わなければならない。やるべきことは分かっていたけれど、どうしても踏み出せない。臆病な私がそこにいた。逃げたって、逃げた分だけ苦しむだけだ。この胸にある苦しさがただ増えるだ。胸元の服を握り締める。――痛い。怖い。…………苦しい。呼吸をする度に肺が焼けるようだった。……しっかりしろ。ちゃんと向き合うのだ。話をするのだ。誰かが代わりにしてくれるわけじゃない。これは私の問題だ。私とミホークさんとの間にある、縁の問題なのだ。
「……ミホークさん」
ミホークさんが動きを止めた。視線がこちらに向くと共に互いに向かい合う。
「私……、ミホークさんの感覚を奪ってしまっていませんでしたか?」
「…………」
返事はなかった。……まさか。最悪の答えを想像して喉が締め付けられた。……が、どうやら質問の意図が伝わっていなかったらしく、ミホークさんが小首を傾げていた。視線は真っ直ぐに私を見ていた。瞬きすらなく真っ直ぐに。言葉の先を急かしたいとき、追加の説明を求めるとき、彼はこういう風にする癖がある。喉が締め付けられていたから声がなかなか通っていかない。唇を噛み締めて気合いを入れる。嗄れた声を絞り出した。
「……意識を操って」
静まり返った夜だった。
「好意を抱くように、」
グランドラインには珍しく波は穏やかで口を閉ざしていたら遠くの誰かのいびきが聞こえてくるくらいに、穏やかな夜だった。
「……ミホークさんのことを魅了したり、私がしていませんでしたか」
そんな夜に放った渾身の言葉は、静けさの中に塗り込まれるようにして消えていった。ミホークさんは微動だにしなかった。まるでその耳には届いていないように思える程で、いや……でも、この距離だ。手を伸ばせば互いの頬に触れられるくらい、近いところにいるのだ。耳には届いているだろう。何とか想像できたのは聞きたくないことを聞いてしまったと彼が心を閉ざしていることだった。
――返事がなかった。
しばらくの間、沈黙に耐えて待ったけれどミホークさんからの返事はなかった。それ自体がミホークさんの返事なのだと勘繰るぐらいには長い時間、沈黙が流れた。もう駄目だ――心が叫び声を上げそうになったそのときようやく彼が口を開いてくれた。
「…………分からない」
「……?」
自分で聞いておきながら返ってきた言葉に困惑することしか出来なかった。彼の顔を凝視した。その視線は斜め下に落ちている。伏せられた瞼がランタンの柔らかな光に照らされて見えた。炎が揺れるようにミホークさんが揺れているように見えた。
どうしてそんな顔をしているのですか、そう聞いてしまいたかった。話してくれなければ貴方が今、どんな気持ちなのか分かるわけがないのに、と詰め寄りたいと思った。でもできなかった。彼の顔を見てしまったら――、彼自身もそれが分かっていないような気がして。聞いたところでただ彼を責め立てるだけのことになる気がして。聞けなかったのだ。
私は、唇を噛み締めた。強く――、ぴりりと皮が剥けて鉄の味がしても、それでも噛み締め続けた。どうしたらいいのか分からなくて。自分がどうしたいのかすら分からなくなってしまって。苦しかった。
ミホークさんが、顔を上げた。落としていた視線を上げて、私の方に金色の双眸を向けた。眉根をくっきりと皺ができるように寄せて、彼は言った。
「……分からない」
彼が泣きそうな顔をしていた。辛い顔だ。彼が見せたことのない顔だった。胸が抉られるような気持ちになった。きっと私は彼を傷つけてしまったのだ。
「ごめん……なさい。私……そんなつもりじゃなくって。ただ……知りたかっただけで」
目頭が熱くなっていく。ぽた――、ぽた――、頬を伝って涙が落ちていった。堪え性がなくってすみません。きっとミホークさんの方が何倍も苦しいはずなのに……。そう思っていても止まらなかった。
「…………」
もしも……ミホークさんとの始まりが悪魔の実の力のせいだったのなら――ここにたどり着くまでの二人の関係は一体なんだったのだろうか。漠然とそう思った。意味のあるものなのだろうか。私は能力でミホークさんの大切な時間を切り取り、搾取してしまったのではないだろうか。頭をよぎる最悪の言葉の数々。
「っ、ごめん、なさいっ!! 私が……私と出会ってしまったから。だから、ミホークさんはっ」
もしかしたら、まだ見ぬ場所にいたはずの、ミホークさんが本当に心から愛するはずだった最愛の人に出会えていたかもしれないのに。私はそれを能力で無理矢理に捻じ曲げてしまったのかもしれない。――私たちはまやかしの関係だったのでは? そんなことを思わずにはいられなかった。……苦しい。胸が苦しくって堪らない。
ガラガラの声で悲鳴にも等しい声を上げながら、私は大粒の涙を落とし続けた。尽きることのない悲しみが胸から湧いて出てくる。顔を両手で覆い隠してももう漏れる声を押し止めることは出来なかった。
「…………っ、うぅ」
――ふと、背中に広がった温もり。ミホークさんが私を抱き寄せた。……それがそんなに駄目なのか――、彼が何かを言っていることは分かったが、何を言っているのかは全然理解できなかった。顔を覆っていた両手をだらりと落として、後ろに立っていたミホークさんに向き直る。
「俺にはなまえがどうしてそんなに悲しんでいるのかが分からない」
「えっ……それは、」
恋愛というものは互いの本心で選んだ者同士が一緒になるべきものだから――そう言ったら、ミホークさんが、
「そんなもの、分かるのか本当に?」
「……はい?」
「できうる限りの記憶を辿って過去のことを思い出そうと努力はしたが、正直、分からない、としか言えない。そこは本当に不甲斐なく思っている。……が、記憶とはいずれ忘れるものだ。たとえその瞬間に互いの本心として選んだとして、次の瞬間にはどうなっているかは分からない。人の心とはそういうものだろう……?」
何時になく饒舌なミホークさんを、ぽかんと見つめた。
「そもそも、そんなに簡単に相手を選べるのなら、これ程色恋に振り回されることはないはずだ。……この俺であっても、自分の気持ちが分からないことがまだあるくらいだ。恋や愛とは、言葉では表せない難解なものであっていいのだ。そういうものだと、なまえも知っているだろう……?」
若い頃に出会ったときに苦慮した経験を忘れたのか、そう諭されて思い出した気持ち。だいぶ薄れてしまってはいると思うけれど、あのときは確かにミホークさんに恋をしていて、でもその気持ちに気が付くのに時間がかかってしまった。あのときも……苦しかった、な。
「俺がどういう経緯でなまえを好きになったのか、それがそんなに重要なことなのか?」
「……でも、自分の意思とは関係なく、強制的に動かされるんですよ? そんなのは、卑怯だと思いませんか」
「そうは言うが、悪魔の実の力は別に絶対ではない」
「……え?」
「暴走しているとはいえ、こなれたものならある程度の対策は取れる……俺も、完全ではないが、ある程度は分かる。確かに、なまえと初めて相対したときに何かしらの力は感じていた。……承知の上だった」
「……え?」
「たとえ始まりが悪魔の実の能力のせいであったとしても、そうでなかったとしても、どちらでもいいではないか」
「……いいの、ですか?」
「困ることではないだろう。百歩譲って、仮に能力のせいであったとしてこの俺を操れる程の力だとしたら逆に相応しくも思うくらいだ。……上等だ」
「っ、」
それはそれでいい――と戦闘狂等しくニヒルに笑ったミホークさんを見て思わず喉を詰まらせた。そんな風に言って貰えるなんて思ってもいなかった。不安が一度に吹き飛ばされてしまった。……どうしよう。すごく嬉しい。
ミホークさんの親指が再び目元に浮かんできた涙を優しく拭う。唇は自然と弧を描いて優しい気持ちで満たされた。私はゆっくりと視線を上げた。
「愛おしいと想うこの気持ちが偽りであったのなれば……そう不安に思う気持ちがあるのは理解できる」
私は感じていたのはまさにそれだ。……怖いのだ。今は良くとも……、いつか熱が冷めるようにしてこの関係がなかったものになってしまうのではないかと、恐ろしくて仕方がなかったのだ。
「考えてもみろ。能力を使ったときの感覚は本部にいたときに理解したはずだ。それならば……、分かるはずだ。今、能力は使っていないと思っているが……?」
「…………はい」
その通りだ。……今は力を使っていない。ゆっくりと頷く。
「上々だ。……では、今この瞬間この場で抱き留めて啼かせたいと感じる俺の気持ちは本物ということにな「っ、ミホークさん!!」……ん? なんだ」
「時と場所を選んでくださいっ! いきなり何言っているんですか!」
「……仕方がないだろう。散々泣き顔を見せられたんだ。あー……そうだな、撤回しよう。きっとなまえが能力を使っているからだな。だから俺はこんなにもなまえのことが欲しくて仕方がないのだろう」
「っ、~~~~!? つ、使ってませんって!」
「……本当に? こんなにもなまえが欲しいのにか……?」
グッと耳元に顔を寄せたミホークさんが耳元で囁く。それは私にとってはあまりに甘い言霊で、常識という壁を破り捨てさせようとミホークさんからけしかけられた罠だった。耳から脳に響く低く鋭い声に耐えるようにして目を閉じる。気を抜けばそちら側に堕ちてしまいそうだった。
「こんな埃塗れの場所でなまえを抱く程、分別がない訳ではないが……」
視線を落として何やら悩ましげに唇を引き結んだミホークさんが、一息吸い込んだ後に言い放った。
「恋人を慰めたいと思う気持ちには素直に従いたい……」
思わず胸元に手が伸びて服を握り締めた。胸が痛いくらいに苦しい。ハッ――と息が漏れる。喉が引き締められた。ミホークさんの口から『恋人』という言葉が出てきたのは初めてだと、思う。それくらい、彼は私たちの関係について、言及しない人だった。私は彼からの愛情を感じているし、きちんと言葉に出して伝えてもらったことも何度もある。……でも、この関係に名前を付けるとしたら何なのか、それについては今まで一度も話したことがない。そんな中で飛び出してきた一言。その一言に私の心は震えた。
「…………ミホークさん」
顔を寄せて口付けを交わした。私から、彼自身を求めるように口付けをせがんだ。ここが船内でなければ、もう服を着ていなかったかもしれない。それくらいに今の私はミホークさんのことを求めていた。
「俺となまえの間に偽りはないと認めてくれるか?」
こちらを見据える瞳は、返事を待つ間中、一度も揺らぐことはなかった。瞬きさえ挟まないその様に、私は胸を詰まらせる。あぁ――愛されていると感じた。確かにそこには偽りはないんだと頭で理解できた。頷きを返しながら、私はゆっくりと目を閉じる。そしてまた彼の唇をせがんだ。

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