時々思う。ミホークさんの双眸は神様が授けて下さった恩恵なんじゃないかって。彼に見つめられるだけで私の胸は高まるし、まるで貫かれたように動けなくなる。…………これは私限定なのだろうか。
苦しそうに息を吐き出したミホークさんが私の身体に覆い被さった。酔いが覚めるまで少し時間をと言いたかっただけなんだが――苦笑しながら荒い息を整えている姿が恐ろしく色っぽい。僅かに震えている声から彼の我慢の幅が読み取れる。
もう既に視線は逸らされ能力から解放されたとは言え、その余韻は未だ彼を蝕んでいるようだった。掴まれた手頸から伝わってくる温度に私も呑まれそうになる。ひと際長い息が吐き出され、彼の震えが止まる。重なっていた身体がゆっくりと離れていった。
どうやら能力に抗いきった、らしい……少し残念。眉を落として悪戯っぽく笑う。我ながら子供っぽいことをしてしまった。フッ――この柔らかな吐息が鷹の目のミホークから発せられることを知っているのは私しかいない。そう思えば思うほどにこの瞬間が大切なものに感じる。……独占欲? っていうのかな。
誰にも彼のことを渡したくない。離れていく顔を見つめながら思う。私のことを見つめる視線から感じられるのは深い愛情だった。身体を重ねたままでは決して見ることが出来ない。普段とは違う、普段では決してみることのできないありのままのミホークさんのような気がして、そんな彼を見たら他のことなんてどうでも良くなった。
彼の手のひらを掴んでそっと口付ける。
堅く分厚い指先のひとつひとつに、丁寧に。あの『夜』を振るうこの手で貴方は私に優しく触れてくれる。戦場を駆け抜け、幾重もの斬撃を放つ姿は洗練されていていつも見惚れる。息をするのも忘れて私は貴方の姿を目で追うのだ。夜を背に収めながら戻った貴方は息のひとつを乱すことなく普段と変わりない態度でほんの少しだけ微笑む。その細まった眼光の中にはまだ戦闘の熱が残っているのを知りつつ、私は彼を迎え入れる。その晩は普段よりも彼の気配が研ぎ澄まされている。
私はそれが好きだった。ほんの少し動くだけでも、彼の気配が私の身体に纏わり付く感覚。一挙手一投足を見張られている感覚。今すぐにでも取って食われてしまうような感覚。実際、ミホークさんは私をすぐにでも抱きたいと思っている――少し前に本人からそう聞いたことがある。戦闘後は特にそう感じると言っていた。でもその勢いに呑まれたまま、なし崩し的に欲望のまま行為をすることは彼の決まり事に反すると。……本当にミホークさんらしい。そしてそれを必死で抑えているらしい……あれで、と言いたくもなるくらい生気やら色気やらがだだ漏れになっているもので、下手な返事はせずに余計なことは言うまいと笑ってやり過ごすしかなかった。
目の前にいる彼は、戦闘はしていないにしろ、その時と同じ気配を醸し出している。そんな彼を私は突いて刺激し、誘ってやった。それはずっと心のどこかでやりたいと思っていたことで、ついにやってしまったなと内心はどきどきしていた。なんだが悪いことをしている気分だ。
負けを認めたように微笑と共に吐き出された短い息。急に気配が柔らかく変わった。腰を折ったミホークさんが唇に優しい口付けをひとつ。
「……俺は一体、どうしてしまったのだろうか」
「……?」
「なまえに触れても、触れても、足りる気がしない」
視線を上げて真上の金色をまじまじと見つめる。あるのは憂いを帯びた彼の瞳。きゅっと細まった両目の端に出来た皺までもが愛おしく感じた。普段はあまり感じない、彼が私と同じ人間であるということを強く感じた。どんなに人間離れした力があったとしても、私と同じ人間で同じように戸惑うことがある、と。いつだってミホークさんは聡明だから、ときどきそんな当たり前のことを忘れそうになる。
「…………もっと触れても大丈夫、だよ」
にっこりと微笑む。
「……足りない。どれだけ抱きしめても、まったく足りる気がしない」
苦しそうに眉根が寄せられている彼の横髪を撫で上げる。体躯の大きな男のはずなのに、今は可愛い子犬のように見えてしまう。大丈夫、大丈夫だからね――小さな声で何度も何度も言った。それがね、普通なんだよって。
「それはね、そういう煩い、なんだ」
「…………煩い?」
「そう、煩い。なんて言うか……ある意味びょーき? みたいなものなんだと思う……」
私はミホークさんよりもだいぶ前にかかった自覚があったから知っている。ミホークさんよりも、その点は少し大人なのかもしれない。ふふ――小さく優しい声色で笑うと彼の唇の端が僅かに動く。歯がゆいという気持ちが彼にもあるといいな、なんて思う。
「……ねぇ。なんて言う病か、知りたい?」
「…………あぁ」
少し長めの一拍の後、彼の返事が返ってくる。あぁ、やっぱり、腑に落ちないのだろう。己が理解できないことを私が知っているんだから。ミホークさんは知識欲の高い人だから尚更だ。あまりない優越感にどっぷりと浸りながら、私はゆっくりとたっぷりと時間をかけるようにして、唇を開いて息を吸い込んで緩やかに、声が弾んでしまわないように気をつけながら落ち着いた声色で言う。
「『恋の病』って言うんだよ」
――――は? と呆けるように口を開けた彼の口元に人差し指をトンッと添える。「世界一の大剣豪が恋の病だなんて……世の中、本当におかしなことがあるもんだね」そう言ってくすくすと笑った。とっくの昔に私の方は煩っていたし、なんならここまで私に付き合ってくれていたんだから、ミホークさんもずっとずっと前から煩っていたと思う。でも、彼は、今ここで、ようやく自分の状況に気が付いたのだ。自分で、自分がどういう状況なのか、理解したのである。
「……まさかこれが、……これが病なのか」
病とは言ってみたけれど、別に根幹に何か悪い物があるわけでもないし……。言い方が悪かったかなとも思ったけど、わりと有名な例え話だったと思うから、間違えてはいないと思う。……たぶん。なので、最後まで貫き通すことに決めた。
「……うん、まぁ」
「……病、か」
あれ、なんか意外とすんなりと受け入れられてしまったかもしれない。あぁ……彼なら「まぁそれなら仕方ないか」と割り切ってしまいそう、いやそういうものでもないと思うんだけど。……だって、恋煩いってずっと辛いものでしょう?
「あのう……一応、治す方法はあるん、だけど」
「治す……? それはなまえへの気持ちを消すとかそういうものか。そんなものは論外「いえっ、ちょっと落ち着いて……下さい。顔が近すぎて話がしづらいって!」
勢いよく肩を掴まれて凄みのある顔で迫られました。肩は痛かったけど、ちょっとだけいつもと違う顔を至近距離で見られたので、それはそれで良かったです。
「あぁ……すまない」
「いえ、大丈夫だから」
「……それで?」
「よく人が言う『恋煩い』って言うのは、気持ちを上手くコントロール出来なくって、苦しいものなんだ。自分を見て欲しい。振り向いて欲しい。この気持ちをどうしたらいいのか分からない。っと言った感情に、振り回されてしまうんだよ」
「俺がそれに当てはまると?」
「……えっと。まぁ、そのう。昨夜はだいお酒を飲まれたみたいだし、先ほどそれっぽいことを言っていたし」
「…………なるほど」
「ごめん忘れて。苦しくないんだったらそれでいいんだよ。無理に恋煩いして苦しむ必要はないんだから。私はいつだって傍にいるし。悩みだって聞くし。まぁ代わりに私の悩みを聞いてもらう必要はあるけど。……ともかく! 私たちは、片想いじゃなくって、お互いが『大切な人』でしょう。だから、思い悩む必要はないの…………ね?」
あぁ――僅かに口元を震わせたミホークさんがぎゅ、と堅く両目を閉ざした。皺が寄る眉間を覆うように彼自身の手の平が顔を包んでしまった。まるで自分の落ち度を恥じるような……もしかしたら『そんな当たり前のことにすら気づけなかった自分が恥ずかしい』とか、そんなことを思っていらっしゃるのだろうか。……だとしたら落ち込ませてしまったのだろうか。
「……そう、だな」
絞り出すように返された彼の声は思っていたよりも柔らかな声だった。……良かった。
「……ミホークさん」
手の平に手の平を重ねる。ゆっくりと開いていく金色の瞳を覗き込みながら言った。
「だいすきだよ」
真ん丸に両眼を見開いたミホークさん。息をするのも忘れているようで、その様子ににっこりと笑う。もう一度伝えようとするよりも早くに、彼の瞳孔がぐわんと開ききって思わず見惚れた。美しくも凜々しい姿に、私は……また――――
:
「だいすきだ……」
:
…………恋をした。
:
:
目の前にある無防備なミホークさんの寝顔。昨夜のことは現実だったのだとようやく実感出来た気がした。本当に……夢のような時間だった。じんわりと胸に広がる暖かな感情。事後はシーツの下で指を絡ませ合い、指の先をお互いに弄びあった。真っ直ぐに私を見つめる眼差しが柔らかくカーブして目尻には壮年らしい皺が貌づくられる。愛おしさのあまりに皺の上に口付けを落とすと、彼の指先が私の横髪を梳いて耳にかけてくれて、こそばゆくって目を閉じる。くすりと優しい音がした。鼻先に香るミホークさんの香りや体温が心地良かったな……。
:
瞼がぴくりぴくりと動いた後、一瞬静止したあとにゆっくりと瞼が開いていく。現れた金色がぼーっと上を見ていた。きょろりと眼球が動くと目が合った。ミホークさんがゆっくりと上体を起こしていく様子に首を傾げた。いつも以上に気怠げである。
「……おはよう?」
「…………」
返事がない。
おぉぅ……。ミホークさんがぼーっとしている。手を前に出してふりふりしてみる。視線が一点を見つめたまま動かない。
「……大丈夫?」
「二日酔いになったのは何時ぶりか……」
あのミホークさんがう――と呻き声を上げている。これは凄い。凄いことだ。
「朝から二日酔い姿のミホークさんが見られるなんてっ!!」
「…………声に出ているぞ」
:
:
朝が過ぎていって、お昼になった頃、ミホークさんの二日酔いが良くなったので島を出ることになった。
「完全復活しましたね」
「わざわざ口に出さずとも」
「いいじゃないですか、何となく、何となくですよ」
ふふっと軽やかに笑う。例の如く、ミホークさんの足の間に座っているので彼の顔を直視することは出来ないが、ふっ、と耳元で吐息が聞こえたのできっと満更でもないのだろうと思っておく。
「それでこれからどこへ行くんですか?」
「かねてから目星をつけていた島があってな。そこへ行く」
「島…………?」
「あぁ、なまえは島が好きであろう?」
「…………」
柔らかな物言いの中に嫌みが顔を出している。……まったく。絶対にわざとであると唇を尖らせる。どうしてだろうか、顔を見ているわけではないのに、ミホークさんが今どんな顔をしているのかがよく分かった。頭に浮かんだ『してやったり』の顔を、悪戯が成功した子供に似た風貌に置き換えてしまうことで少しばかりの憂さ晴らしをしてやる。子供っぽいと言われようがなんだろうが、こんなものは想像したもの勝ちである。ニカッと白い歯を見せる笑み。ミホークさんが絶対にやらない笑い方だ。なんだか思っていた以上に可愛らしい風貌になってしまった。似合ってなさ過ぎて笑いそうになってしまって、肩が震えるのを何とか堪える。
そんな些細な憂さ晴らしがばれたのか、それとも、いつかに言った「この船は小さ過ぎるだの……居心地が悪いだの……」を、まだ根に持っているのか――ちくりと刺さる上からの視線に気付いて軽く後ろを見やった。
「……なんですか?」
「…………いや、まぁいい。島はここからそれ程遠くはないが場所が分かりにくい」
「それは新世界だからですよね? 確かに普通の海域よりも島は見つけ難いとは思うけど……」
「あぁ。そこで、」
左側の腕を掴まれて持ち上げられる。首を傾げていると、「ちゃんと付けているな」と――ミホークさんがそっと触れたのは手頸に付けていた記録指針 だった。
「大切にしているよ」
「……それは光栄だな」
フッ――と柔らかな吐息が聞こえた。目を閉じて静かに微笑む。これはミホークさんがわざわざオーダーメイドまでして私のために作ってくれたものだから。はっきりとそう言わなかったけれど、彼には伝わったのだろう。心なしか先ほどよりも上機嫌になっている気がする。少しこそばゆい感じはするけれど、あの時の……これをもらった時の感情が蘇ってきて幸せを感じることができた。
――と、ミホークさんが話を続けた。
「島の磁気は気ままなものだ。いくら3つあるとはいえ、そうやすやすと行きたいところを指してくれるわけではない」
「そうなんだ……」
コンパスは手頸についているけれど、実のところこれを使ったことはない。迷子になってミホークさんと逸れて一人で途方に暮れるというシチュエーションが今のところはなかった。幸運なことにと言って良いのか、それが普通なのか、そこすら分からないんだけど……。ともかく……! 使う機会がなかったので、いまいち仕組みが分かっていないのだ。
「だが……」
意味ありげに言葉を句切ったミホークさんが口を閉じる。後ろから布の擦れる音が聞こえた後、目の前に差し出された木製の何か。その外観を見せるようにくるりくるりと回す彼の手元を凝視した。木の枠の中にガラス玉が入っている。ガラス玉の中には一つの針が入っていた。まるで羅針盤の先のような…………。そこまで思考が回ったところで、『あぁ、そういうことか』と思い至った。
「少しは賢くなったようだな」
「失礼ですよ」
「そういう癖に、口調が戻っているようだが?」
「……あ。いやこれは……分かってはいるんだって! 意識しないとなかなか難しくって。すぐには直せないものなんだよ。……長い目で見て」
「…………まぁいい」
それよりも――目の前にあるものが何なのか、何となく思い至りはしているが、ミホークさんの口から正式に聞きたいものである。
「これは永久指針という」
「永久……ってことはつまり、」
「あぁそうだ。察しの通り。これは永久的にその島の磁気を記録し、その島を指し示す」
「そんなものが本当にあるんだ」
「……数は出回っていないがな。あると便利なものだ」
確かに。新世界において、行き先がはっきりと分かっているのはとても助かることだ。私でも手に入れることが出来るのなら、レスティとマスターのいる島の永久指針を作りたい。
「確かに。それは便利そう」
詳しい仕組みは分からないけれど、先ほどからこの永久指針の針は何処か一点を示しているように見える。……ということは、これはもうすでにどこかの磁気を記憶している……?
首を傾げてまじまじと見ていると上からクスリと微笑が降ってきた。
「気になるか」
「そりゃまぁ当然……?」
「これは、次に行く島の磁気を記憶している」
「……次の目的地?」
「あぁ。ここに2つ準備した」
そう言って、ミホークさんはもう一つを私の目の前に差し出した。まさか二つも持っているとは。でも、なんで……? その思惑が分からないので、目を白黒させることしかできない。一体どういうつもりなのか。
「この一つをなまえに渡しておこう」
「……え? これを私に?」
――なぜ?
「行けば分かる」
「……はい?」
そう言ったきり、ミホークさんは永久指針についての話に答えてくれなくなった。謎は深まるばかりで、私はプレゼントされたガラスの中の羅針盤を恨めしく見つめることしかできなかった。

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